それがいつの間にか習慣となってしまったきっかけなど、たぶんありはしないのだろうと思う。
「今日、部活長引きそうなんだ」
約束をしているわけでもないのに律儀にそう報告にくる彼を、なぜだかうっとうしいと思ったことはなかった。ずいぶんと丸くなったものだ、そう、自分でも思う。そしてそれがこの子限定のことなんだから、もう救いようがない。
水を失った苗木か、はたまた水を得すぎたそれのようにしゅんとうなだれる山本に、あ、そう、と返すと、うな垂れたこうべはあがらないまま、さらに位置を低くした。大きな小動物の飼い主にでもなったみたいだ(この際日本語的矛盾点は気にしない)。
「…あ、そう、とか……」
どうやら、わがままなペットは僕の返答がお気に召さなかったようで。大きな体躯に似合いもしない上目遣いで(それでも違和感を感じないのは親の贔屓目なのだろうか)恨めしげに見上げてくる。そんなことされても、お生憎様、優しい言葉をかけてあげるような精神は持ち合わせていないけどね。
なんか、もっとこう、さあ…ぶつぶつと言いよどんでいる山本はそっちのけで、この昼休み中に上げなければいけない書類に目を通す。そういえば、4限目終了のチャイムが鳴り響くとともにここに立っていたこの子は、昼食をどうしているのだろうか。少し気になったので尋ねてみたら、あっけらかんとした顔で(先ほどまでの沈んだ表情はどこへ行ったのか)あ、まだ、と切り返された。
「そーいや忘れてたなー」
「……馬鹿じゃないの」
尋ねる間もなく、それが否定の仕様がない事実だとはわかっているけれど。いかんせん本人に自覚がないのだから、こういうことは何度も何度も言って聞かせるに限る。…今までこの教育方針できたのに一向に治る気配がないところから察すると、彼にこの方法は合わないのかもしれないけれど。
「だって、早く伝えなきゃなーと思って」
「…別に、食べてからでもよかったんじゃない」
「んー、まあ、そうなんだけど」
部活のこと伝えなきゃなーって思ってヒバリのこと思い出してたら、会いたくなってさ。…あ、でもちゃんと我慢して授業はちゃんと受けたんだぜ!だってヒバリ、授業サボると怒るだろ?で、とりあえず昼休みになったらすぐ行こうって思ってたから、それしか考えらんなくて。…あーそっか、だからおれ、バカだって言われんのかな?
ああ、馬鹿。本当に馬鹿。
そのくせ僕を惑わすことだけは人一倍巧いだなんて、まったく、腹が立つよ。
「…で、部活はどれくらいまで長引きそうなの」
「確実なことは言えねーらしいけど、練習のあとにミーティングが入るらしいから、たぶんいつもより2時間くらい長くなる、かな」
「へえ」
「……へえ、」
僕の返事を反芻してから、「自分で聞いたくせに、ヒバリ、冷たい」なんて呟いている山本は、どうやら最初の旨趣を思い出したらしい。再び身体をちぢこめて、うな垂れる。ころころと変わる表情の数は、初めて会ったころに比べてずいぶん増えたのではないかと思う。あのころは、笑うしか能のない子だったから。
今では、落ち込んだ顔や拗ねた顔、悲しげな顔や悔しそうな顔まで、見せるようになった。この表情のバリエーションは、なかなかに趣深い。
「僕のほうは、今日は早く仕事が片付きそうなんだけど」
こうやっていじめたときの、泣き出しそうな表情がまた、たまらない。そのあとの、無理して作った笑顔は、嫌い。
「…じゃあ、今日は、ムリな」
下校をともにする、という習慣がついたのはいつのころだったか、もう定かではない。初めは特に誘い合わせたわけでもなくて、たまたま帰り道にばったりと遭遇しただけだった。交わす言葉もなく、ただ同じ方向に向かって足を進めていただけの、下校。それから何度か同じようなことが重なって、初めて言葉を交わしたときに、実は鉢合わせすんの狙ってた、と告白された。自分も無意識に同じことをしていたのだと気づいたのは、ちょうどそのとき。
それからというもの、下校のとき隣にいるのはこの男で(もちろん、毎日が毎日というわけではけいれど)。山本はひとりでぺらぺらとしゃべっているけれど口数の少ない僕とはまるで会話にならず、ときどき事故のように触れ合う手のひらに頬を染めたりしていた(もちろん、山本が)。
だけどそれは言ってしまえば偶然の連続であって。約束を交わしているというわけではない、だからわざわざ断りに来る必要はないと、言ったことがあった。そうしたらまたこの子は、あっけらかんとした表情で返すのだ。
『だって、放課後会えないんだから、ちょっとでも一緒にいたいなと、思って』
愛すべき馬鹿とは、こういうのを言うんだろうか。相手がこれだから、僕も思わず、柄にもなく仏の顔を出してしまったりするんだ、実はもう、何度となく。
「玄関で待ってるのは疲れるから。ちゃんと、呼びにおいでよ」
間抜けに阿と開いた口から声は漏れず、零れ落ちそうな瞳を何度も瞬かせる。その馬鹿っぽい表情も、何とかしろと言ってるのに。…しょうがないから、今回だけは多めに見てあげるよ。
ようやく僕の言葉を理解したらしい山本が満面の笑みをこぼすのと同時に、昼休み終了のチャイムが鳴り響く。ぐうと力なく鳴る山本の腹の虫を聞きながら、5限目をサボる許可を出してあげようかと、僕はまたも仏心を覗かせていた。
(僕を想って変わるその表情たちが、僕は嫌いじゃないんだ)
/07.05
ヒバリさんが気持ち悪くてすいません!
甘い=山本にべた惚れなヒバリさん、の方程式がいつの間にか成り立ってます。←