雨と髪の毛にまつわる話
「あーユーツだあー…」
脱力感バリバリの様子で机に突っ伏し腹立たしい声を上げるクラスメイト兼不本意にも部活仲間を見やって、阿部はあからさまに眉間に皺を寄せた。正面で二人の背負うオーラのコントラストを見せ付けられた花井は、もう半分諦めながら仕方なく阿部のほうを宥めにかかった。見慣れた光景だけれど、そこに自分が参戦することには慣れたくないと心から思う。
「ウゼーウゼーまじウゼー!憂鬱をカタカナで言うあたりまじウゼークソレ!」
「阿部、抑えろって」
「ひっでー!あべひでー!」
「頭悪そうな声でおれを呼ぶな!」
「あ、あべ、」
「いいじゃんたまにはおセンチなミズタニくんを慰めてくれたってさー。わかんないかなこの流れ出るブルーオーラがさー!」
「おれにはお前の存在自体が理解不能」
つーか「ユーツ」を日本語訳できてる時点で阿部ってだいぶ水谷のこと理解してると思うんだけどな、口に出したら一瞬にして鍛えられた肘がみぞおちにクリティカルヒットするだろうセリフはこっそりと胸にしまいこんで、花井は水谷を黙らせることにも専念しなければならなくなった。いつもはあべこわい、と敬遠してくれるから助かっているというのに、ここ最近水谷はやけに阿部に対して挑戦的だ。テンションが落ちている理由は梅雨前線が連れてきた湿気のせいだとこの間本人から聞いてはいたが、どうしてこう、天敵に石を投げるようなマネをするのか。もしかしたら思ったよりもこいつは複雑な心情を持っているのか。でもそのせいで被害を被ってるのはおれなんだぞと、第三者のはずの花井がもっとも理に適った理由でいらついていた。こう問題児ばかり大量に保持する西浦の母の気苦労は、並ではない。
「水谷も、湿気で髪がまとまらないくらいでブツクサ言うなよ」
「花井まで阿部みたいなこと言う!あのねー、このヘタリ切った髪形はおれにとっちゃ大大大問題なのー」
「じゃあ全部剃れ、全部」
「はぁ!? そんなんヤだよ!あべが実践してから言ってくれるー?」
「おれは別に髪型なんか気にしねーからいいんだよクソレ」
「だから、あれは散々謝ったじゃん!いつまでもことあるごとにクソレクソレってやめてくんない!」
「文句あンのかよクソレ」
「ありありおおありいまそかりー!」
「お前ら……」
しまいにはため息をつきながら、ここが高校であることさえ疑ってしまう花井である。だってどう見たってこれは、小学生レベルのけんかだ。クソレがどーだボウズがどーだ(ボウズを目の前にしてボウズ否定を始められるこいつらの人間性にはほとほと脱帽)。はいもう勝手にやっててください、と投げ出せればいいのだが、残念ながらそれが出来ないのが彼の性分でもあった。早くこの痛いほどのクラスの視線にきづかねーかな、あ、でも気づいたところでなんも意味ねーんだろーな、はあ、結局この損な役回りはおれってことですか、ああはいそうですか、なんて雰囲気に呑まれて花井さえもが自暴自棄に陥ろうとした頃、ふと廊下側の窓から聞きなれた声が飛んできた。
「はないー!」
「あ、さかえぐ」
「さかえぐちー!!」
呼ばれてもいないくせに花井の声を掻き消して窓から顔を出す人物の名を呼んだ水谷は、さっきまでの脱力感はどこへやら、まるで飼い主を見つけた犬のように栄口の元へと走りよっていった。わ、と驚いたように小さく声を上げて、じゃれ付いてくる水谷を栄口は苦笑いで宥めながら花井たちの下へとやってくる。
「相変わらず賑やかだね、7組は」
「…あー、もー、ホントにな」
「お疲れ様です主将」
「どうも。…で、どうした?」
「さっき廊下でたまたまシガポと会ったんだけど。今日も雨だし、モモカンもなんか用事があって来れないとかで、筋トレも今日はお休みにしようかって話になったらしくて」
「え、今日部活休みなの?」
「うん、そうみたい」
栄口に制されて渋々椅子に座っていた水谷がふりふりと見えない尻尾を左右に揺すりながら目を輝かせて尋ねるのに、栄口はにこりと笑顔で肯定を示した。さすが西浦のトップブリーダー栄口、駄犬の扱いもよく心得ていると、花井は感心してしまった自分に自己嫌悪に陥る。
「じゃあさ、栄口、今日一緒に帰ろうよ」
「今日?…あ、うん、えっと」
「うるせークソレ、ちょっと黙ってろ。で、栄口、その紙は?」
「え?ああ、これ、そん時にシガポから渡された明日の練習日程」
「メニュー変わんの?」
「ううん。今まで雨のせいで筋トレしかしてなかった分、ちょっと身体なまってるから特別メニュー、だって」
「ふーん。見せて」
「ほい」
食って掛かってくる水谷を片手で制しながら差し出されたもう一方の手に、栄口はメニュー表を渡した。飄々とした表情に、阿部と水谷の強弱カンケイがよくあらわれていると、栄口は思いながら小さく笑う。それから日程表を覗き込む阿部と花井に混ざって自分も紙を見下ろして、ふと視界に入ったものに反射的に触れた。
「あ、阿部、髪はねてる」
「んあ?ああわりー、直して」
「へいへい」
たぶんこれも湿気のせいで少し乱れていた阿部の髪を、栄口が丁寧に整えていく。ピシィッと大げさなくらいの効果音が彼方から聞こえた気がして、花井は一時撫で下ろしていた胸のあたりをガッと掴んだ。ああもう、心臓が痛い。いやこれは胃か?おれが胃潰瘍なんかになって早死にしたら、ぜってーこいつらのせいだ間違いない、そんなことを考えながら、花井は再びの悲劇を嘆いた。
「さ、さかえぐちー!」
「んー?」
「うるせークソレ」
「ね、さかえぐちっ、ねねっ!おれも!おれの髪も直して!」
「えー?だって水谷の髪ぺしゃんこになっちゃってるから、修正不可能なんだもん」
「そんなぁぁああ!」
「ほい、直ったよ阿部」
「おー、サンキュー栄口」
「どーいたしましてー」
「ねぇねぇさかえぐち、おれもー!」
ああああうるさい。おれに安息の時間はないのか。4限がんばって授業受けて、ようやくの安息の昼休みだって言うのに、おれはゆっくりと弁当を食べる暇もないのか。ああこれは一体、なんのせいだ?
胸中で投げかける問いに、返る答えはない。
とうとう痺れを切らした花井がガンと机を叩いて立ち上がり、そうになったとき。無機質なチャイムの音が花井を宥めるかのように響き渡った。一瞬場が静かになって、栄口が慌てたように口を開く。
「あ、おれ、もう行かないと!」
「えー、さかえぐち、もう帰っちゃうの!? まだ予鈴じゃん!」
「次移動教室なんだよ。教室も遠いしさ、早く行かないと、巣山待たせちゃうし」
花井はまたしてもしとしとと降り続ける雨の彼方に落雷の音を聞いた。新たに水谷がぎゃーぎゃーと騒ぎ出してそれに阿部がキレて水谷が言い返して、そんなエンドレスループが始まるのを覚悟した刹那、予想に反してぴたっと黙り込んだ水谷をいぶかしんで花井が目線を投げると、飛び込んできたのは色素の薄い駄犬の毛並みに触れるブリーダーの手、で。
「姉ちゃんが間違えて買ったメンズのハードワックス、うちにあるからさ。おれは使わないし、水谷髪気になるんだったら、やるよ」
「…………」
「今日取りに来る?」
「………い…行く、」
「ん、了解」
にこりと笑ってそう言うと、あっさりと栄口の手は水谷の髪から離れて、くるりと踵が返される。今の水谷の様子を表すのにいちばん適切な単語って言ったら、「放心」なんだろうな、と花井は思った(そして阿部に言わせればきっと「アホ面」なんだろうな、とも)。
「あ、そだ、おれ今日傘忘れちゃったから、ついでに入れて帰ってな」
んじゃ、また後で。
そう告げて栄口が7組の教室から姿を消してから、「放心」(かつ、アホ面)の時間が幾分か流れて(そのうちに花井は残っていた弁当を一気に平らげた)、最初は確かブルーだったはずのオーラが七色に変色しだして。
「さかえぐちー!!!」
昼休みの終了を告げるチャイムと水谷の喚起の声とのコラボレーションは、痺れを切らした阿部がぺしゃんこになった水谷の頭を思い切り殴りつけるまで続いた、とか。
見事に振り出しに戻った事態。でも明らかに先ほどまでとは違う水谷のオーラを見て、やっぱりこいつは複雑なんかじゃない、超超超単純!と意識を改めながら、花井は机の中から教科書を探った。
西浦の母、花井梓の苦悩の日々は、まだまだ終わりそうもない。
梅雨前線が連れたって。
(やってきたのは何の変哲もない日常!)
/07.09
7組+栄口の組み合わせが大好き…です!
阿栄も水栄も大好きなので欲張ってみたら、栄口が天性のタラシみたくなりました。終いには巣栄主張!笑