哲学者は白々しく夢を語る
愛してるなんて軽く言えちゃう人はさあ、ほんとに人を愛したことなんかないんだろうね
汗が冷えて冷たくなった布団の上に落ちる、それよりさらに冷淡な言葉。荒かった息もすっかり落ち着いてまどろみに落ちる手前、彼がもっとも卑屈で素直になるとき、決まって落ちてくるのは冷め切った彼の中にある哲学の教えだ。おれは何も反応しないまま冴えた意識をもてあまして、ベッドから立ち上がる。締め切ったブラインドの向こうにもまだ太陽はない、気温も上がらない早朝というよりは真夜中、まだかわいらしかった彼のたっての希望により闇に支配された部屋の中は、少なくとも冷たい布団の中よりはあたたかい。ベッドの下にだらしなく放り出された下着とズボンを身に着けて、少し離れた位置に置かれた椅子に腰をかけた。ベッドサイドのテーブルの上に乗ったたばこ、一本取り出してライターを擦れば、ぼうっとオレンジ色の炎が浮かぶ。まるでかげろう。
「あ、お前またそんなモン吸って」
「いーだろ別に。たまの楽しみくらい取ってくれるなよ」
「……スポーツやってる人間とは思えない発言だな」
「お生憎様、支障はきたしておりません」
「わーあヤなやつー」
高校時代のほうがお前まだかわいかったんじゃない?まあヒドいやつだったけど。
ひとりになったダブルベッドにうつ伏せに寝転がって枕の上に頬杖ついて、布団から出た足をぶらぶらと遊ばせる。揺れ動くふくらはぎが眩しい、おれの作る橙に照らされて光る。眩暈を起こしかけて、慌ててライターを消した。くわえたたばこから灰の煙が一筋、天井に向かって伸びる。
「おまえ、昔っからそれ言うよな」
「え?」
「ヒドいやつ、っての」
「あ、ああ。だって阿部はヒドいやつじゃん」
「……あ、そ」
なんだよー、なんか不満そうだなー。くすくすと笑って、足は楽しそうに揺れる。何がそんなに楽しいのかわからないけれど、栄口はこういう顔で笑うことが多い。何がそんなに面白いわけと尋ねたら、阿部には一生わかんないんじゃない、なんてはぐらされたから、それ以来そのことについて触れるのはやめている。おれだってそこまで浅はかじゃない、自分の首を自らの手で絞めるなんて、ましてや誰かに絞めてくれと頼むなんて、そんな馬鹿な真似はしない。ああでも、その相手がやつならば、それも悪くないかもしれない。
「あべ、」
「なに?」
「なんかキモチ悪い顔してるけど、やーらしいことでも考えてんの」
ああ図星。全部知り尽くしたような顔で口の端を引き上げて笑う、その表情はおれなんかよりよっぼどヒドいやつに見えるんだぜ、そりゃあまあ自覚はあるだろうけど。にや、同じような形に顔をゆがめて挑戦的に見下ろしてやったら拍子抜けなほどにへらんとした笑顔を投げてよこすから驚いてしまうけれど、おれは、お前に首を絞められるのだけはまっぴらごめんだ。
「なあ、栄口」
「ん?」
「栄口」
「なに」
「……勇人」
「だから、なんだって」
椅子に座ったおれよりも目線の低い栄口が、おれを見上げるように首をかしげている。少しくちびるを尖らせて拗ねたように眉をゆがめている、外身だけ、上辺だけ見てたらまるであの頃のまま何も変わってないみたいだ。そうなると、おれももしかしたらあの頃のまま、何も変わらずにここにいるんじゃないかと錯覚してしまう。錯覚だって自覚がある分、幾分かはまともだ。
呼ぶだけ呼んで一向に用件を話そうとしないおれを促すように視線を合わせたまま、栄口はベッドの中でごそりと身じろいだ。あんなに冷たい布団の中でじっとりと汗ばんだ栄口の短い前髪が、形のいい額に張り付いている。おれはそれを剥がすようにして一撫でして、愛撫のように指を滑らせたのち、ちゅっと音を立てて額に吸い付いた。塩分が舌を刺す。しょっぱい。驚いたように、栄口の身体がびくりと揺れた。ああいい気味だ。そうやって、おまえはおれの手のひらの上で、踊っていればいいんだよ。
それが叶わないということは、もうずいぶん昔から知っているけれど。ああそう考えればもしかしたら、こいつはあの頃から何も変わっちゃいないのかも知れない。おれが気づいていなかっただけで、実はこいつは、なにひとつ変わっていないのかもしれない。
わけもわからず目をぱちくりと瞬かせる栄口の指先を引っ張ってくちびるで掠め、おれは身体を引いて椅子に座りなおした。
「なあ栄口、」
「…………」
「おれ、おまえのこと愛してるよ」
一瞬、大きな目がぱっちりと開いて、それからゆっくりと細められて、黒目がちな瞳は三日月を描いた。やんわりと笑う、その顔は妖艶という言葉がぴったりだと思う。不思議な引力に導かれて、惹きこまれてしまう感覚だ。その効力をわかっていてむやみやたらにばら撒いてくるこいつはもう厄介としか言いようがない。その魔力のような笑みをたたえたまま、栄口はひときわゆったりとした語調で、静かに囁く。
「おれも、愛してるよ」
やはりこいつはまだ、己の哲学を捨てる気にはならないらしい。
いつの間にかずいぶん短くなったたばこを、灰皿もないのでベッドサイドのテーブルで直接押しつぶして、視界を闇に投じる。夜が明けるまでには、まだまだ時間がありそうだった。
白み始める、
(遠い意識の淵のきみ)
/07.12
阿部が乙女すぎたorz
両片想いで身体だけの関係な阿栄ってよくね?という妄想の産物