うつくしすぎたのでしょう
「……あ、べ?」
静かな部室に、波紋を描いて声が浸透していく。ぼわぼわぼわっと耳の奥に声は届くが、言葉の真髄を理解しない脳みそを責めることは到底出来ない。なぜならすべての根源はおれの下で目を瞬かせるこの男で、それから今はどこにいるのかもわからない(知ったこっちゃない)能天気な男だからだ。おれはまったく悪くない、脳裏で繰り返して、握った手に力を込める。目下の男が眉をひそめて、抗うような声を上げた。
「何してんだよ」
「見たまんま」
「…ばかじゃないの、タチ悪い冗談はやめろよ」
は、冗談。
嘲るような笑いが漏れておれ自身が驚くよりも先に、栄口がぴくりと肩を震わせた。次第に身体が強張って、表情が凍り付いて緊張が全身を固めていくのがわかる。面白くてたまらない。この手のひらにおれがもう少し力を込めれば、彼は怯えた目をぎゅっと閉じて「やめろ」と請うのだ。あれだけ散々おれを転がしてきたこの男が。
「あ…べ、ほんとまじ、冗談きつ…っ」
「誰が冗談だなんて言ったよ」
「ねえ、まじで、や、」
「やめねー」
ふざけんな、と射竦めるような瞳がおれを指す。ああだめだ、それはとんだ逆効果だ。自分でも気づかないほど奥深くに眠っていた征服欲に似た感情が、渦を捲いて腹の底から逆流してくる。ぎし、と古めかしい部室の天井が軋むのを、意識の遠い淵で聞いた。
さっき着替えたばかりのカッターシャツに手を差し込んで滑らかな肌をなで上げる。固まっていた身体が気がついたように抵抗を開始し、引きつっていた口元から再び抗議の声があふれ出した。
「や、だ、やめ…あべっ」
「………」
「はな…っ、あ、おねがい…!」
「………」
「た、…かや!」
ひくりと脳みそがフリーズしたように真っ白になった。視覚だけで見下ろす彼は乱れた衣服を両手で引き寄せながら、大層痛そうな顔をしている。気づけば、ごくんと喉を鳴らしてひとりでに固い唾液の塊を嚥下していた。
「ご、め……あべ、」
硬直したように動かなくなる身体を自覚する。心臓がはちきれてばらばらに飛び散ってしまいそうなほど、強い力で握りこまれた。気づかされる。理解しろと諭すように。
「あべは、やさしすぎるよ。こんな、おれなんかのために、」
ぽつぽつ、ぽつぽつと音がしている。いつの間にか降りだしたらしい雨が、薄い窓と天井を打って室内に水音を運び込んできた。栄口はカッターの胸元を合わせたままゆっくりと立ち上がり、ぐっと俯く。
「おれは、こんな、…… 」
それから、思考がまったく回らなくなったおれの頬に冷たくなった片手を当てて、すっとなぞるように一瞬にしておちる。ああ、そんなことはわかっていたのに。自分自身よりも先に彼が気づいてしまうことも、わかっていたのに。どちらがより卑怯なのかは判断できない。
ああ、
「ありがとう、 」
そんな言葉を求めているわけじゃないことくらい、おまえだってわかっているだろう。
それでもおれは、きっと彼のくちびるがそう紡ぐだろうこともわかっていたのだ。
ああ、どんな痛みだって我慢してみせるから、
ごめん と紡ぐのだけは、どうか、よしておくれ
/08.04
ab→sk→mz
やさしすぎる阿部