ほしいのはとくべつ
「おい、ちょっと」
「あ゛?」
よぎったのは、ヤツの顔。
何をしているのか、悪態をつく代わりに唾を吐いた。
がらがらっと音を立てて引き戸を開けると、とっくに閉店したはずの店内のカウンターにぼうっと薄明かりが見えた。スクアーロは眉間の皺を濃くして、大きな音を立てて扉を開けてしまったことを激しく後悔する。だけどそれも所詮後の祭りで、仕方なくがばっと振り向いた人影と目が合わないように肩を落とした。
「スクアーロ!」
慌てて立ち上がったはずみに椅子が倒れたのか、無駄に盛大な雑音のオンパレードを繰り広げながら、人影はこちらにやってくる。ぱちぱち、と電気のスイッチを押す音が聞こえて、ああもう言い逃れはできないな、とスクアーロは頭を抱えた。
遅れて灯った蛍光灯が暗闇になれた瞳をやいて、眩しさに目を眇める。
こんなに明るくては、あふれる赤を隠すことも不可能だろう。
「スクアーロ、こんな遅くまで何して…っ!?」
「……別に、」
「別に、じゃなくて!何だよその血!」
「ちょっとかすっただけだぞぉ」
我ながら苦しい言い訳だと思う。肩口を軽く抉った傷は、何かがかすった程度でできるものではない。が、あながち間違ったことを言っているわけでもなかった。スクアーロに言わせれば、そんな傷はかすり傷同然だからだ。
もちろん相手がそんな返答で満足するはずもなく、尋問が続くのでまったくこの言い訳は意味を成さなかったわけだけれど。
「かすったとか、そんな程度の傷じゃないだろ!」
「……うるせえ」
「……………、」
「……………」
「……けんか、してきたのか?」
「……………」
無言を肯定ととったのか、山本はくちびるを引き結んで踵を返すと、土間用の草履を脱いで居間へと入っていった。
後姿を見送って息をつくと、スクアーロはもたれかかるようにしてカウンターの椅子へ腰掛けた。肩口をぬらした血はもうすっかり乾いている。間違ってどこかに血液が付着してしまうことはないだろう。
ただ座っているのも手持ち無沙汰で、立ち上がってお冷を汲む。湯飲みの位置だとか飲料用の水が出る蛇口だとか、そんなものを熟知してしまうくらいにはこの家に慣れてしまったらしい。
そんな意味もないことは覚えたというのに、何故。
スクアーロはもう一度大きく息をつくと、汲んだばかりの冷たい水を一口であおった。
「……………」
血に塗れた体で帰ったらきっと心配するだろうと思って、わざわざ寝静まった頃を見計らってきた。それなのに、あいつは自分を待って起きていて。きっと心配をかけた。しかも最後には、怒らせてしまった。何のために外で不味い夕飯を食ってまで、今まで時間を潰してきたのか。こんな結果をだすためではない。
どうして気づけなかったのだろう。あの男の異常なまでの人の良さを考えてみれば、わかることだったのに。
(……やりずれェ)
慣れないことが多すぎる、と思った。
こんなぬるま湯の中で生きるのも、ましてや人に気を遣うなんて。
考えて、スクアーロは首を振る。
これは違う。気を遣うなんて、そんなもんじゃなくて。
(求める対価が、でかすぎる――)
「スクアーロ!」
「う゛ぉ゛ぉ゛い!」
予期せずかけられた大声に背中をびくりと波立たせながら、思わずくせのようなせりふが漏れた。これが驚いた声だと言ったらきっと彼はけらけらと笑うだろうから、なるべく気取られないように冷静を振舞って後ろを振り向く。と、すぐ背後に立っていた影によって顔面に小さな箱をぶつけられた。
「い゛……っ」
「わ、びっくりした、いきなり振り向くなよ」
「…………っ」
それはこっちのせりふだ、思いつつ、スクアーロは鼻っ柱を抑えて顔をそらす。山本はそんなスクアーロの態度も然して気にする様子もなく、先ほど小気味いい音を立ててスクアーロの顔を殴った箱(真ん中の赤十字マークを見る限り、どうやら救急箱だったらしい)をカウンターに載せると、黙々と包帯と消毒液を取り出し始めた。
「うぉい、お前…」
「ん、なに」
明快に返事をしながら、それでも意識は救急箱の中身に向けたまま、明るくなった店内で山本はてきぱきと動き回る。どこからか持ってきたタオルを水に浸して、山本はスクアーロの前に仁王立ちになった。何をする気だと訝しんで見上げると、彼は困ったように一度眉尻を下げて、小さく失礼、と呟いた。
「おい、何する――!?」
「ちょっと大人しくしてろって」
「う゛お゛い゛、お前、ちょ」
頭上に影が差した、と思ったら山本の手が突然シャツのボタンに伸びてきて、スクアーロは上ずった声を上げた。なんだなんだなんだ、こいつはいったい何をする気なんだ。慌てるスクアーロを尻目に山本は上3つのボタンを外し終えると、少しむっとした表情でスクアーロの肩口を露出させた。
「う゛お゛い゛!」
「血、固まってる」
「………!」
かと思ったら、悲しげな、それでいてやはり少し怒ったような表情で見下ろされて、困惑する。
こんな感情を向けられたことがない。どう対処したらいいかなんて、わかるはずがない。
それっきり訪れた沈黙がなんとも息苦しくて、スクアーロはざんばらに伸びた髪をがしがしとかきながら「あー」だ「うー」だと声を上げる。それすらも聞こえないような風貌で山本はスクアーロの隣のカウンターに腰を下ろすと、先ほど持ってきた濡れたタオルをすっかり血液の凝結した傷口にあてがった。布の繊維が肌の敏感な部分に触れて、意識しないところでわずかな声が零れる。それでも山本は、一言もしゃべらなかった。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が室内を包む。響くのは、包帯を巻く衣擦れの音とお互いの呼吸音のみ。
何を話す気もない。ちらりと山本の顔を盗み見ると、伏せられた瞳がほのかに充血していることを知った。時計を覗いてみれば、もうとうに日付は変わってしまっている。当たり前だ、そんな時刻を狙って自分は帰宅したのだから。
こいつはもう寝ているだろうと思っていた。放課後にあれだけの運動をして、朝は誰よりも早く出て行くというのに、そんなに遅くまで起きていられるはずがない。そう高をくくっていた、のに。睫の下に隠された、自分が帰るまでの彼の様子が脳裏に形成される。こくりこくりと何度も眠りに落ちそうになりながら、それでも目をこすって必死に起きている姿。
ふう、と小さく、息をつく。
「…謝らねーぞ」
以前黙々と包帯を巻き続ける手元に目線を落として、スクアーロは小さく口を開いた。山本は答えない。包帯の締め付けが少しゆるくなった。
「悪いのはてめーだからな」
情景がフラッシュバックする。
バカみたいにけんかを売る相手を間違えている餓鬼ども。どれだけ怒鳴られたってしょせん小型犬が吼えているくらいにしか思わない。腹も減ったし、とっとと話を終わらせて寿司でも食べようと思った。米の上に刺身を乗せるというあの料理はまったくの異文化だったが、これが案外いける。寿司を苦手だという外人は多いが、口にあってよかったと思う。もしこれがまったく食えなかったら、即刻日本を逃げ出したくなったことだろう。なんといってもスクアーロのホストファミリーの家では、1日の大半の食事がこの寿司なのだ。
思考が横道にそれているのがなんとなくわかったのか、男たちは声を張り上げた。弱い犬ほどよく吼えるというのは本当だ、と思う。相手にされていないことさえわからないなんて、いっそ哀れだ。小さく息をつくと、頭に血を上らせた男が胸元に忍ばせてあったナイフを取り出した。
瞬間、やばい、と思ってしまったのは、決して刃物なんかに恐れがあったからではない。
「……てめーが、あんなこと言いやがるからだ」
よぎったのは、ヤツの顔。
日本に来て最初に見た、混じりけのない笑顔。ああこんな顔をする人間もこの世にはいるのだと、そう、思った。
「あんなこと、って」
「……………」
――あんま無闇に、人、殴んなよな
約束をしたわけではなかった。ただ一方的に告げられただけだ。
それなのにどうしてあの瞬間、そんな言葉が脳裏に蘇ったのかはわからない。
「……殴ってねぇぞぉ」
素直に伝えてしまうのは癪で、それでも山本が無言で先を促すものだから、視線は下げたまま、吐き捨てるように言う。瞬間、肩口に巻きつけられていた包帯がぐいと引っ張られて無意識に顔を上げると、山本は目をいっぱいに見開いてスクアーロを見下ろしていた。
ああこいつはバカだから、理解すんのに時間がかかるのか、悟って、スクアーロはもういっそそのまま気づかないままでもいいぞと心のうちに呟いた。それでも今から数秒ののち、ようやく自分の言葉の意味を理解した山本がどんな表情を浮かべるのかと想像したら、そういうのもあながち悪くない、とスクアーロはひそやかに口端を持ち上げるのだった。
ありがとうだなんて言葉は、まだ言えそうもないけれど。
(対価が手に入るのは、意外にもう、そう遠くない未来)
/07.06
結構前から言い続けてたスク山留学生ネタをようやくアップ。
いや・・・これってアレだ、後悔の塊。(あ
そのうちリベンジしたい、スク山。でもネタない。←