ベッドサイドから漂ってくる煙のにおいが鼻について、嫌でも意識を浮上させられた。まだ眠いと身体は訴えるが、目をつむっても眠りの世界に帰れない。仕方なくもぞりと動いて布団の中に頭を埋めると、物音に気づいたらしきベッドサイドの男がぴくりと身じろぐ気配が伝わった。無視、無視、無視。心に決めて、動きを止める。一瞬の膠着状態があって、がばりと布団をめくり取られた。晒された素肌に刺さる冷たい空気が、痛い。それでも、無視。一向に最初の決意を崩さないおれにじれたのか、男に向けた背中をげしっと蹴り付けられた。
「一希ちゃーん、おはようさん」
「………」
「あららら無視?ヒドくなーい?」
ヒドいのはどっちじゃ、言い返そうとして、やめる。無視無視無視。おれが頑として破らないのは今はこれひとつだ。誰がなんと言おうとしゃべってなんかやらない。おれは寝たふりを続けるべく、ぴくりとも動かないように細心の注意を払った。刺すような空気にも、負けない。
「かーずきちゃん」
呼ぶ声がさっきよりも大きくなる。おれは動かない。男の声が部屋の中から消え失せて、それからは沈黙が落ちた。ようやく諦めたか、いや、でもあいつはそんなに物分りのいい人間じゃなかったはずだ、じゃあどうして。気配を消した意識の端で思考をめぐらせたその刹那、ふう、とたばこを吹かす音がして、煙の香りが近くなった。あ、と言う間も、思う間さえなく何かが上から降ってくる。なんとかと叫ぼうとして、驚きすぎて声が出てこなかった。
「―――っ、あ」
熱い。
反射で上半身を起こせば、いつの間にかすぐ近くまでやってきてきた瑞垣と目が合う。驚きに目を見開いて喉がひきつってしまったおれに、更に追い討ちをかけるように紫煙の攻撃が襲いかかってきた。にやりと歪む口元が見えた一瞬、頼りなさげに揺れる瞳が垣間見える。え、と口を開けた瞬間に、たばこを持ったままの左手がおれの肩を押した。突然のことに対処が遅れて、上体が傾いでベッド脇の壁に背中を強か打ちつける。
「やーらしい声出すやないの、煙草の灰落とされてそんな声出すなんて、一希ちゃん意外とマゾなのねえ。俊二くんったら興奮してきちゃった」
「やめ、瑞垣、――っ!」
いつも通り流暢な調子でしゃべりかけてくる瑞垣を避けるように身体を捩らせれば、下半身に感じる違和感、と、腿を伝って落ちていく液体の感覚が無防備だった思考を襲った。息を呑んで眉間に皺を寄せる。どろりと流れ落ちた瑞垣の精液と思わしき液体が、腿を伝って足の裏まで流れた。鳥肌が立つ。ぶるりとふるえた瞬間に、瑞垣がにやりと笑った。
「あーあ、もったいないなあ」
老若男女問わず引っ張りだこの瑞垣くんのとびっきりのタネやでえ、下世話なことを呟きながら、垂れて伝った精液をなぞるように拭きあげていく指先。同じ球児なのに、おれのとはまったく違う、細くてしなやかな指。お山の大将を後ろから支え続けてきた宰相の指。繊細に、あるいは乱暴に、神に触れることを許された指。おれがずっと、憧れて止まなかった指、それがいま、おれの腹から流れ出てきた悪魔のタネをぬぐい去っている。
ぶるりと震えた。晒された身体を隠す衣類はひとつもない、寒いのは当たり前だ。だけど、そんなのは違った。漂うたばこの匂いをかがなくたって、そんなことはわかっていた。
「離せ――はなせ、瑞垣」
腕をつかんで力を込めて、半月を描く瑞垣の目をぐいと見返す。すうっと顔中から潮が引くように笑顔が消えて、現れたのは仮面を剥がした瑞垣俊二の顔だった。この、素のままのこいつの顔は、もうずいぶん前に見た気でいた。彼の隣には、手の届く位置にいながら、決して触れることを、手を伸ばすことさえ許されない天才がいた。近すぎる場所にヒーローがいたこの男の、どす黒く染まったところと、まっさらでありすぎるところ。わかった上で、すべて呑み込んでしまった気でいた。それは、おれの手に負える代物ではなかったというのに。
「みず、」
「いやや」
掴んでいた腕を逆に握り返されて、身体に力が入った。衝撃で、つうともう一筋太腿に白い線が引ける。感覚を追わないように意識をそらしながら、おれはくちびるを噛んだ。鬱血して腫れたそれは、やけに塩辛い。みずがき、もう一度呼ぼうとしたら、遮るように彼の上半身が揺れて、晒されたままのおれの胸元を茶色の猫毛がくすぐった。倣うように、おれの中にあった瑞垣のさいごの一適が、身体の中から抜けていく。なんとも形容しがたい感覚に身を捩って笑ったら、涙が零れてきた。
「いやや、ぜったいに、離したらん」
駄々をこねるように嫌々と首を振るたびにやわらかい毛が素肌をくすぐって、今にも声が漏れてしまいそうだ。耐えるように目を瞑る。暗闇の中でうるさいくらいに何かがちかちかと光っていた。それは本当に眩しくて、そう、手を伸ばすことさえ憚られるほどの。触れること自体が禁忌だと、気づかされてしまうほどの。先に禁忌に触れたのは、彼のほうだった。
「海音寺」
「…………」
「かいおんじ」
「…………」
「…かずき、」
「ええよ。…ええよ、瑞垣。離さんなら、それでええ。おまえがそれでいいなら、いいんじゃ」
いつの間にか開放されていた腕で、しつこく絡み付いてくる髪を撫でてみたら、なにか大きなものが崩れる音がした。それはきっと、いつからかずっと護ってきたものだ。瑞垣も、おれも、必死に縋りつくようにしながら、それでも壊れることだけはないように、護りつづけてきたものだった。音を立てて崩れ去るのとともに、瞼の中でうるさく瞬いていた光も小さくなってやがて消えた。
壊れてしまったのなら、それはそれでいいと思った。ただおれは、この胸の中で小さく丸まった物体だけは、どうか壊れてしまわないようにと願った。
さよなら僕のスーパースター
(選んだ道がどうか棘でありませんよう、)
/08.03
素敵極まりない6×6企画様に捧げた瑞海!
精神的に不安定な瑞垣をそっと支えてくれる海音寺が瑞海の基本スタンスだと思うのね^^