未熟ながらもオルゴール
あのしなやかな指先が、すきだ。
ピアノを弾いてくれと頼んだら、いつもは頑なに俺には「No」とばかり返してくる彼がすんなりとOKをくれた。少々の驚き、のちに来る至福感。へへ、と笑うとバツが悪そうに後ろを向いた彼の首筋が赤かったもんだから、なんとなく了承の理由がわかってしまって、俺はさらに笑みを深くした。
そんな約束を交わしたのが、一週間前。目の前には、ピアノに向かった椅子に腰をかける、彼。俺はその後ろで、背中を見つめている。夕暮れの音楽室に差し込んだ光がまぶしくて、目を眇めた。と、不意に彼がこちらを振り向いて。
「……で?何がいいんだ?」
「へ?」
「リクエストだよ、リクエスト」
何が、と聞き返す前に答えをもらって、それでも咄嗟に答えられないでいると、獄寺は眉間の皺を深くした。弾いてくれって頼んだんだったら何か考えておきやがれこのバカ、と一息に怒鳴られて、俺は慌てて頭をめぐらせる。せっかく了承を得たのに、こんなところで機嫌を損ねるわけにはいかない。少ない頭の引き出しを全部開いて、必死でピアノ演奏曲を探す…けど。
「…………」
「…………」
「……ごめん、獄寺。俺、ピアノの曲のタイトルなんてわかんねー」
「…………」
そんなこったろーと思ってたけどな、綺麗な緑の目を半眼に眇めて頭をかく。呆れられてる、俺。だけど、やっぱり生まれもった考えなしな性質って言うのはなかなか治らない。
ため息をついてピアノにもたれかかってしまった獄寺を何とか浮上させようと、俺の思考回路はフル稼働。なのに妥当な解決策が微塵も浮かばないのは、言わばもう、悲しきサガ。仕方ないといえば仕方ないとも思うのだ。根っからのスポーツ少年、温室で育てられた経験など、皆無。テレビだって滅多につけないし、音楽を聴くよりは野球をしたい。俺はもともと、そういう人間なのだから。
(………なのに)
聴きたくなってしまうのは、不思議だとしか言いようがないと思う。今だって、部活も終わった放課後、いつもなら家に帰って素振りをしてる時間帯だ。それを潰してまで、ここにいる。野球よりもほしいものが、ここにある。要はそんだけの話なんだと思う。
助けを求めるように奏者のほうを仰ぎ見たら、いつの間にかポケットから取り出して火をつけたらしき煙草をふうと一息ふかして。暗くなっていく外の明かりを、何とはなしに眺めている、姿。短くなった煙草を、これまたポケットから取り出した携帯灰皿に押しつぶす。そんなマメな動作が彼にとても似つかなくて、どーしたのそれ、と尋ねてみれば、十代目に勧められた、と短い返答が返ってきた。まあ、彼がツナに一直線なのは今に始まったことじゃないんだけど。少しは、俺の中の葛藤に気づいてくれてもいいんじゃないかと時々思ったりしてみる。俺のことを鈍感だ鈍感だと言うけれど、あんただって負けてない。いつだって全然、気づいてないじゃないか。
「……いや、違う、そーじゃなくって」
「あ?」
いつの間にか軌道がそれていた思考回路を元に戻すために口に出したら、不審げな目で見返された。いつの間にか、新たな煙草が一本、彼の口に。白い煙を巻き上げるそれとピアノはまったくもって不似合いで、少しだけ笑う。
「なんでもない……あ」
突然、頭の中に流れ込んできた曲調。俺でも知ってるほど有名な(たぶんテレビとかで流れてたんだろう)、クラッシック。すんなりと脳内に流れ込んできたメロディのその曲名を、残念ながら俺は知らない。なんなんだよ、と怪訝そうなまなざしで見返してくる獄寺に、俺は思案ののち、あのさ、と声をかけた。
「あ?」
「ピアノ、弾いてくんね?」
「だから、何を」
「………えっと、」
おぼろげな記憶を手繰り寄せて、反芻。それから、くちびるを尖らせて息を抜いた。これだけは昔からお手の物。
曲のさわりを奏でる、口笛。ワンフレーズが終わるか終わらないかのうちに、稚拙な口笛に上品なピアノの音が重なった。気づいて獄寺のほうを見やれば、そこには俺の知らない、彼がいた。
アッシュグレイの細やかな髪に夕暮れの日光を集めて、伏せられたまつげに反射する。鍵盤の上を右に左におよぐ指先。転調のたびにわずかに揺れるこうべで、銀糸が踊る。それはまさに、ため息が出てしまうような光景だと、思った。
ひととおり弾き終えたのか、ゆっくりとその指先が、動きを止める。緩慢な動作で鍵盤から手を下ろし、伏せていた瞳を上げて俺のほうへ向きかえってくる動きさえどこか神秘的に映ってしまうのは、きっといわゆる惚れた弱みってやつなんだろう。
「………なんだよ」
ぼーっと見惚れていた俺をいぶかしむように問う。はっと気づいて目を瞬かせると、映るのは尖ったくちびる、後頭部辺りをかく手。思わずぷっと吹き出すと、獄寺はすごい勢いで頬を染めて怒ってきた。
「てめぇが弾けっつーから弾いてやったってーのに、ふざけんなこのバカ!」
「あ、いや、落ち着けって獄寺、」
「うるせー!俺だって別に好きでやってたわけじゃねえんだ、似合わねーなんていわれなれてんだよバカ!」
「そーじゃなくて、おい、……って」
似合わねーなんて一言も言ってねーじゃん、むしろ似合いすぎててぐうの音も出なかったよ、とかなんとか獄寺を諫めるための言葉が出てくるはずだった、のに、それよりも先に気になってしまったことがあって、予定は実行されなかった。だって、そんなのは聞き捨てならない。
「ちょっと待てって、ごくでら」
「……あ?」
「お前、好きじゃねえの?」
何を、と尋ねたそうに口が開いたから、聞かれる前にピアノ、と答えて返答を待つ。答えを聞くのに、どきどきしていた。なぜかはわからない。ここで嫌いだと答えられたら、なぜか悲しい。それがどういう経歴で結び付けられた感情なのかはわからないけれど、たぶん、野球がめちゃくちゃ巧い人に「おれは野球が嫌いだ」って言われたらすげー悲しくなるだろうとも思うから、よくわかんねーけど、感情イニュウってヤツかも。
真剣な目で獄寺の瞳を見つめていたら、視線が気まずげに外されて、珍しく眉毛が困ったように下がった。それから人差し指で額を掻いて、ふうと小さく息をつく。
「…なんでお前が泣きそうな顔してんだ」
「え、あ、」
「べつに、嫌いなわけじゃねえよ。ただ、いろいろ思い出す、から」
ぽつりぽつりと顔を伏せてしゃべりだす獄寺の表情は当然だけど見えはしなくて、ああ遠いな、と漠然と思った。心臓の辺りを刺激してやまないこの距離感が何なのか、どうやったら埋められるのかなんておれには到底わかりはしないんだろうけど、ただ手を伸ばしたくなったから、触れてみた。頬に触れたら獄寺の顔が上がって、目が合ったと思ったら、ぷっと吹き出された。
「へ……は?」
「だから、なんでお前が泣きそうなんだってーの」
あはははと腹を抱える勢いで笑われて目を瞬かせれば、さっきのお返しだバーカとぐしゃぐしゃと頭をかき回される。それでもまだ状況を理解できていないおれを置いていくように、獄寺はとっとと椅子を立ち上がると鞄を投げてよこした。
「とっとと帰るぞ」
扉を開けて出て行ってしまいそうな獄寺を追いかけるように慌てて椅子を立ち上がって、待てよと声をかけて駆け出す。鞄を背負ってずっしりとした部活の道具の重みを背中に感じて、開けっ放しだった鍵盤の蓋を閉めて、それからまだ伝えていないことに気づいて、歩き出した獄寺を呼び止めた。あ?と後ろを振り向いた獄寺は、もういつもの、おれが知ってる獄寺で。だけど、おれの知らない獄寺もまた、紛れもない獄寺。わかりそうで、繋がりそうで繋がらない糸にむしゃくしゃして、見出されたひとつの事実だけを口にすることにする。
「おれ、獄寺のピアノ、好きだよ」
伝えたら、獄寺はぱちぱちと目を瞬かせて、それから、今まで見たこともないような顔で笑った。ああおれの知らない獄寺が、おれの知ってる獄寺になっていく。ゆっくりと染みこんでくるようなこの感情をなんと名づけていいのかはわからないけれど、きっと答えはもうすぐ見つかるような気がしていた。笑みがこぼれる。
「いーから。早く帰るぞ」
走り出すのとともに、ふとさっき聞いたピアノのメロディが脳裏に蘇った。ああそういえばこれって、こんなタイトルだったっけ。少しずつもやが晴れていくのを実感する。まだまだわからないことはたくさん残ってるけれど、それを今ここですべて紐解いてしまうことはない。ゆっくりとしたテンポで、おれは獄寺の背中を追った。
エリーゼのために
(しだいにしだいに、キミ色に!)
/08.02
半年くらい前のストック^^
もう目も当てられないから手直しもしない!だけど貧乏性なんだ^0^←
やまものナレーションがバカっぽすぎる^ρ^