そろそろ限界だろうとは思っていた。
指折り数えたらもう6になる。右手だけでは足りず、左手までもが浸食され出す数だ。もともと相手は堪え性のないタチの人間であるし(少なくともおれはそう思っている)、むしろ今まで我慢できたことの方がよっぽど奇跡なのだろう。だからもう、これ以上わがままを言う気はない…のだけれど。思わず身構えてしまうおれの反応も道理だろうと思う。対象はそうほいほいと投げ出せるものではないのだから。
だけどやっぱり、それもとうとう限界らしい。熱っぽい視線で見つめられるのを感じるとともに、冷えた汗がつっと背筋を下った。そもそもまずおれはどうしてこんな境地に置かれているのか。二人で最後まで残った部室(かぎ当番のおれをあいつが待っているのはもう6ヶ月前からずっとお決まりになっている)で、なぜか朝から落ち着きのなかった榛名となんだかよくわからないうちにそういう雰囲気になって(部活終わるの遅かったせいで辺りはいつもよりも暗かったし、おれも男だし、まあ雰囲気くらいは仕方ないだろ)、たぶん朝からずっと言わんとしていたのだろう落ち着きのない様子の原因らしかった「今日うち誰もいないんです」という言葉に不覚にも反応してしまい、「泊まっていきませんか」と半ば硬い声で告げられた所謂そういうオサソイに、なまじ甘ったるい雰囲気に流されてしまったおれは思わず、頷いてしまったのだ。まあきっと、この肌を刺すような危険の原因はそんなもので。最後の一歩を選ばせてもらったものとしてはもう、静止の言葉を発することさえ出来ない。こいつはいつだってそうだ、ずるい。逃げ道を完全に断ってしまってから、攻めの手を踏んでくる。
だけど正直、まずったなあという思いはあれど、別段ひどい後悔はしていなかった。そりゃあまあ、おれたちは一応仮にも俗に言うコイビトドウシなわけだし、遅かれ早かれいつかはそのときがくるのもきっとまた、事実なわけで。覚悟とか実践方法とかそういうのはさておき、こういう場合があるということを一度も想像しなかったわけではない。どうせ来るものならいっそ早いうちに終わらせてしまったほうがいいかもしれない――と思いながら6ヶ月の時が過ぎているのだけど。
…つまりはまあ、そういうことで。
覚悟は出来ているはずだと再確認。往生際が悪いのはよくない、男たるもの一度決めたらもう後戻りはしない!ぐっと榛名には見えない位置で拳を握って、気まずさに伏せていた顔を上げる、と。
「かぐやまさん」
待っていたかのようにあの絡みつくような視線が落ち、すっと頭の上に影が差す。さっきまで榛名の顔を見ていたと思ったら一瞬で視界いっぱいがよくわからない色で染められ、びっくりして身体を引きかけたところをむりやりに静止させられた。後頭部を押さえつけてくる力は存外に強く、感じたことのないオスの性をまじまじと見せ付けられる。おいおいおいおいちょっと待て、ぬるりとくちびるを舐めることによって次のステップを要求してきた榛名に、言葉の代わりに肩を押し返すことで応えると(さすがにこの場面で口を開けば逆効果だってコトは経験上理解した)、榛名はちゅっと薄ら寒い音を立ててくちびるを吸ってから渋々と離れていった。
「かぐやまさん」
再度名を呼ばれる。発情した男のソレを色っぽいだとか思ってしまうのは、惚れた弱みか親馬鹿か。おれはこいつの親じゃないんだ、そんなのは前者に決まっているけれど。そうとすんなり認めてしまうのもいまいち腑に落ちない。安いプライドだ。
「…な、んだよ」
「アンタここに来るの拒否しなかったでしょう?それは、そーゆー風に取っていいって、おれは思ってますけど」
「…………」
う。
両手で肩を掴んで真正面から向かってくる榛名に、目を合わせることも出来ない。こいつの、こういう真っ向勝負名ところが苦手だ。イガグリチビの自分に、そんな真っ向から人と向き合うほどの度胸はない。…いや、なかった。それを改めてくれたのは、間違いを指摘してくれたのは、他でもない榛名だ。そんな真っ直ぐなところに惹かれた。自分にはないそれを、手に入れたいと思った、それは事実だ、が。
思い切り首をそらして外していた目線を、油の抜けたブリキのようなスピードでゆっくりと合わせてみる。それはやっぱりオスの目以外のなにものでもなくて、やっぱりおれはこいつのそういう対象なのであって、もちろんおれもこいつをそういう対象にしているわけなんだけれど。心の持ちようはずいぶん違うだろうと思う。それはまあ、立場とかそういう観点からくるものであって、そりゃあおれだって男だし上に立ちたいという願望がないわけでもないが、どうもこいつはおれのことを女のように扱ってくる節がある。こいつがその気なら、おれはやり方だって知らないしこいつをリードして翻弄する気にもなれないし(かといっておれがリードされたり翻弄されたりするわけではないけれど)、自然と立ち位置がそうなってしまうのもまあ、仕方ないといえば仕方ない。そこはもう諦めた。問題は、諦めたからといっていざそういう場面に立ったときにすんなりと割り切れるか否かという話だ。おれはそれが否だったという話、で。
「…スル、のか?」
「したい、です」
「いま、から?」
「そう、いま、すぐ」
時間を稼ぐために持ちかけた質問だって、話をそらすだとかそんなことを考慮している脳内の空き容量もないわけで(だって余裕なんか微塵もない)、むしろ逆効果になっている気がしないでもない。すっぱりと答えを返されて、まったく時間稼ぎとしての効果さえ為していない、し。ああこういうときに何よりも恨むのは経験値の違いだ!いまどきこの歳で年齢イコール彼女いない歴だなんて笑えない。しかも初めてのコイビトがあろうことが男だなんて、笑うどころか口にさえ出すことができない。しかも相手は(おそらく)経験豊富なツワモノだ。ああほんとに、笑ってはいられない。
気まずげにそらした目線でぐるりと榛名の部屋を旋回する。そういえば、彼の部屋に入るのはこれで2度目だと思い当たった(そりゃそうだ、なんたってもう6ヶ月目)。初めて来たとき――確か、付き合い始めてすぐの部活が休みだった土曜。あの日は榛名の親も在宅だったし、こんな雰囲気は微塵もないままゲームやったりだらだらしただけだった、けど――に比べて綺麗な部屋だという印象が強いのは、もしかしてこのために掃除なんかしてたり…するのだろうか。なにしろ前回の訪問が数ヶ月も前なものだから記憶は定かではないが、明らかに何か手が加えられていて、少し落ち着かない。そのためにセッティングされた部屋って言うのはなんだか、ひどく生々しい。
掴まれた肩はそのままにわずかに身じろげば、やけに静かな室内に衣擦れの音が響いてなんとなく、室温が増した気がした。
スルとかシたいとか話をそらすためとはいえ(いや、実際はまったくそれてはいなかったけれど)あれだけ直接的な言葉を言い合ったあとだというのに、こんな些細なことで興奮を促されるとはおかしな話だと思う。
「…………」
視線を感じる。どこへともなくさまよう自らのそれを合わせられないのは、感情のベクトルが同等の方向を示しだしてしまったせいなのか。答えを出せるほど脳は上手く機能していなくて、なるべく意識を榛名の方に向けないようにするばかり。どうかこの心臓の音が触れた皮膚から伝わらないようにと祈るばかり。
やがて、焦れたように一度ぎゅっと肩にかかった手に入る力が強くなって、ふとその一瞬のちにすっと体温が引いた。ぎしっとベッドのスプリングが軋んで跳ね上がり、重心がずれて横倒しに転びそうになる。それを難なく右手一本で受け止めて、榛名はベッドから立ち上がったその位置でふっと苦笑じみた表情を漏らした。
「…はる、」
「スンマセン」
落ちてくる声に、ずんと胃の底に重たいものが転がった感覚がする。切羽詰ったように笑う顔に、ぐるぐると心臓の辺りに小さな渦が巻く。なんでお前がそんな風に、そんな顔したりして、…違う、ちがう、から。伝えようと思った言葉はおおよそ日本語になんてなっていなくて、一瞬の躊躇のうちに榛名の指先はするりとおれの身体から滑り落ち、背中がこちらを向いた。交代の後、外野から見るマウンドにいつもある大きな背中。だけど今はやけに小さく見えるそれに、ああとすんなり納得するものを見つけた。
「無理強いする気はなかったんスけど。……ちょっと、焦っちゃって、…スンマセン」
「…榛名」
「あー、えっと、ちょっと頭冷やしてくるんで。そのまま寝ててくれてもいいっスけど」
「はるな」
「そんじゃ、ちょっと」
聞く気もないのかばかやろう。そりゃ散々焦らしたかもしれないけど(不可抗力だしょうがないだろ!)、我慢させたかもしれないけど、考えてきたことはちゃんと一緒なんだよ。自らの意思でここに来たのは他でもないおれなんだよ。離れていきたいなんて微塵も思ってないんだよ。だから、離れていくなよ。選ばせたのはお前のくせに、これだけ追い詰めたくせに、あっさりと引いてしまうなよ。
一言に集約されない言葉たちがもどかしくて、もう考えるのも面倒だから立ち上がった。そっちの方が早いし、言葉よりももっと伝わりやすいはずだ。野生の本能で生きているようなこの餓鬼は、そういうことにだけはたいそう敏感にできているようだから。そしてそれはあながちこいつだけに当てはまる言葉でもないから、こちらとしても好都合。
「はるな、」
呼んで、ぐっと伸ばした腕を榛名の腹の前で交差させた。背中が腹に密着する。余裕で抱きこめると思っていた背中は、存外に大きい。だけど不自由するほどの体格差があるわけでもなく(おれも男なんだしましてや年上だし、当然といえば当然か。というかそのくらいじゃないとさすがに傷つく)、交差させた腕にぎゅっと力をこめた。動揺して身じろぐ榛名の気配が伝わって、気分がよくなる。ざまをみろこのやろう。散々おれのこと振り回してくれたお礼だよばかやろう。こういうテンションのときは本気で落ち込みやがるから、とりあえず今は黙っておいてやることにする。
「か、かぐやまさ、ん!」
「ん」
「な、な、な、にして、んすか!」
「あー、捕獲?」
ホカク、じゃないっすよアンタ自分がなにやってるかわかってんスか!おれが必死に理性はたらかせて我慢してるってーのにアンタってオニ?コアクマ?
よくわからないことを口走りながら、榛名の手がおれの腕を掴んだ。熱さは負けず劣らず、だ。理屈ではわかってたけれど、実際に分け合ってみたらそれはすごく安心する体温、で。
「我慢なんてしなくてもいいんじゃねーの」
「は………あ!?」
なに言ってんだと言外に、声音と目線だけで訴えてくる。そりゃそうだ、さっきまで散々行為を渋っておいて、ようやく理性効かせて自分落ち着かせたと思ったら次は促すような行動。我ながら何してんだ、と思う。だけどしょうがない、男ってのは本能に忠実に生きる動物だ。お前は何かとおれを神聖視してくるけれど、おれだってお前と同じ、男なんだぞ。
「いいよ」
「加具山さん、何アンタ、大丈夫?」
「……したくないんなら、おれは別にそれでいいんだけど」
「わああ!タンマタンマ、今のなし!で!」
焦りようが面白くて、ふっと噴出して笑えばふと触れていた手のひらで、握った両手を解かれる。あ?と首をかしげているうちに榛名はぐるっとおれの腕の中で踵を返していて、気づいたときにはふたり、向き合う体勢になって。腹と腹が密着している。それから、背中には熱い手のひらが。
自覚したら一気に熱が爪先とか頭の先だとかから逆流してきて、急に恥ずかしくなってきた。おれはいったい何をしてんだ。いきなり後ろから抱きつくとか、そんな、なんて恥ずかしいことを。
だけど、抱き締められるという行為は嫌いじゃない。身長差だとかそういうのが浮き彫りになってしまうのはどうもいただけないが、伝わってくる体温の高さが心地よいから、だ。そういえばいつかそんなことぽろりと零したときも、この男はコアクマだとかなんとか口走っていたような気がする。何なんだよそれ、思わず笑い出しそうになって、だけどまた雰囲気ぶち壊しー!とか騒がれても鬱陶しいので我慢した。
「いい、ん、すか?」
「……おう」
「…あんなに嫌がってたくせに」
「拗ねんなって、別にいやだったわけじゃねえよ。…ただ、なんだその、心の準備とかそういう、」
「っ、そんな、かわいいことばっか言うの反則。もうおれ、これ以上はセーブ出来ないっスよ、…いい?」
「……じゃあやっぱやめとこうかな」
「無理っス」
じゃあ聞くなよこのばか。
ぐず、と隠すように鼻をすすり上げる声が耳元で聞こえるのはちゃんと聞こえないフリ、出かかった言葉もちゃんと重石をつけて胃の中に溜め込む。ムードもなにもない(壊したのは榛名のほうだ、おれは悪くないからな)、だけどさっきよりずいぶんと居心地のいい部屋で、相手は半泣きだし、もうほんとばかじゃねえのと思うけれど、それもまた、らしいで片付いてしまうのが気持ちいい。
ぽんぽんと背中を叩いてやりながらなんとなく、おれは6の数字が更に大きく更新されていくだろうことを予感していた。
/07.10
ヘタレな榛名とかっこいい加具山さんが理想です。(理想の話
うん、まあ、この日は結局未遂にて終わるんだ。