夏がゆくよ、君のもとへ
秋風も次第に冷たさを増して、季節はそろそろ冬になだれ込もうとしている。
もうそろそろだいぶ寒ィな、言っても反応する人間は周りにはいないので、胸中でひとりごちて加具山は赤くなった手のひらをこすり合わせた。マフラーに埋めたはずの首もとも、繊維の隙間から入り込んでくる北風のせいで冷たい。ああ暑かった夏が懐かしい、晴れているのに灰色を映し出す空を見上げて、思う。かつてしっかりと刈りそろえられていた頭に髪は生えたけれど、厄介な後輩に押しつけられたこのニット帽がなければ今以上に寒さが染み入るだろう。白い息で温めた手のひらを冷える前にポケットにしまい込んで、加具山は校門にもたれ掛かるようにしてしゃがみこんだ。
あのばかやろう、眉間の皺の原因は、件の後輩である。このニット帽は寒さを凌ぐのには役立っている、それは認めよう。だがしかし、それ以前にどうして自分はこの寒空の下家に帰ることもしないでこんなところに座り込んでいなければならないのか。加具山は眉間の皺を深くした。その原因もまた、件の後輩なのだ。
普段は一緒に帰れないんだからテスト期間くらい一緒に帰りましょうねと、図体に似合わない捨て犬のような目で訴えられるのに、加具山はすこぶる弱かった。たった1、2ヶ月しか経っていないのに随分と遠いことのように思えるのは、榛名が決勝打となったウィニングボールを握りしめて頭を下げてきたことだ。
ごめんなさい、おれ、行けなかった
力なく仰がれた瞳は力を込めすぎて白くなっている指先に触れることを許してくれているようで、加具山はその日始めて、榛名の右手に触れた。その指先は思っていたよりも大変しなやかで、温度は自分のものと同じくらいだったから、あたたかいもつめたいもわからなかった。
泣くなよ、おまえには来年があるだろ、皮肉るつもりも僻むつもりも慰めるつもりもなく、ただ自然に漏れたその声に、榛名は弾かれたように顔を上げて、違うと叫んだ。
違う、違うよ、おれは加具山さんと行きたかったんだ、甲子園!あんたと一緒に、行きたかったんだ!
ばかだなあ榛名、気づいたら加具山は泣きながら微笑んでいて、榛名はその身体にすがりつくようにしてくちびるを噛んでいた。
なあ榛名、おれはさあ、すっげ満足してんだよ。1回戦負け覚悟してたときなんかには到底わかんなかった経験、したんだ。おれの高校野球、楽しかったんだよ。感謝してんだ。なあ、だから榛名、おまえが、泣くなよ
上げられた榛名の顔があまりにも間抜けで思わず吹き出しそうになっていたら、間もなく見かけ通りたくましい腕に抱きすくめられていて、榛名、呼びかければ、小さく声にならない吐息が返ってきた。
「なんだよ榛名、聞こえねえ」
「……加具山さん、おれ、好きです」
「あ?」
あんたが、好きです。
雰囲気もなにもない告白に返す言葉はもう、決まっている。むしろ、何を今更、と返してしまいそうになった。だってお前だって知っているだろう。
この一夏、追いかけて、ぶつかって、縋って、離れて、触れて、放して、見つめ続けていたのはたったひとつの背中だった。目標で、始まりで、ゴールなのだ、それは。その背中が、こんなに近くにある。ぶらんと力をいれることなく肩からぶら下がったままになっていた両手に力をいれて持ち上げてみたら、あっという間に触れられた。
ぼろぼろと零れてきたのは、きっと涙だった。
「ごめん、はるな、おれ、うそついた、」
「…え?」
「やっぱり、おれも、行きたかったよ、おまえといっしょに、甲子園」
「……うん、」
おれ、来年は絶対甲子園行くから。絶対あんた観客席に呼ぶから。んで、スタンドのあんたんとこまで、ホームランボール、届ける。
ばっかじゃねえ、おまえのお得意はピッチだろうよ、嗚咽交じりの声で返せば、1年の間にバッティングも何もかも全部出来るようになってみせますから、といつもどおりの自信に満ちた声が返ってきた。ばかだなあ、もう一度呟きながら、そっちのがお前らしいよと彼の背中をあやすように叩く。
「かぐ、やま…さ、」
「強くなればいいよ、それでこその榛名だろ」
「…っ、」
「連れてけよ、甲子園球場。武蔵野を、おれを、さ」
「っ、はい、」
ずずっと鼻をすする声が聞こえて、密着していた身体が少し離れる。なんだ、と首をかしげて榛名の顔を覗き込めば、がっと顔を伏せるようにして差し出されたウィニングボール。おれたちの負けを告げたボール。榛名が投げて、打者が打って、加具山が追いかけて、遥か遠くへと吸い込まれていったボール。眩しいほどの白球が描いた放物線の魅惑的なラインを、目を閉じれば今すぐにでも、思い出せる。
「ホームランボール、は、少なくとも来年になっちまう、から」
「うん」
「今はとりあえず、これで、我慢して」
「打ったのはさ、相手のチームの4番だったけど。高校2年の夏、おれが最後に投げた、球だから」
おれたちの最後のマウンドから放った、球だから
またしても浮かんできた涙は残念ながらくちびるを噛んだところで抑えきれる様子もなくて、榛名に倣ってこうべを下げた。ぽたぽたとしずくの垂れる音が聞こえたような気もする。それが自分のものなのか彼のものなのか確認する前に、ボールを握った両手をぐいと引かれて、涙は溶け合ってしまった。
慣れ親しんだ独特の縄目模様が、ふたり分の握力で手のひらに食い込んでくる。痛くはない、むしろ心地よい、感覚だった。
あー寒ィ、結局小さな声でひとりごちて、加具山はずずっと鼻を鳴らす。はぁ、と息を吐けば、マフラーに閉鎖された空間の中に水蒸気が溜まって、少しだけあたたかさが増した。さきほど同じ方法であたためた両手は、ポケットの中で外気に触れることなくやわらかな温度を保っている。右ポケットに入ったままの物質を手のひらの中で転がして、軽く握ってみる。縄目の感触は伝わっても、それが手のひらに食い込んでくることはなかった。しばらく狭いポケットの中で右手を遊ばせながら呼吸をする。外気の冷たさにも、だいぶ慣れてきた。
「かぐやまさーん!」
お待たせしましたー!と鼻を赤くして駆けてくる後輩に、決勝打のウィニングボールより何より先に、熱いラーメンを奢らせよう。
それから、冷え切ってしまった左手に、彼の右手から体温をもらおう。
あの夏の日の眩さ
(それはきっと、消えることなく瞼の裏を灼くのだろう)
/08.01
加具山さんを大好きな榛名が好きなんだ\(^0^)/
あとは校門の前でちっさくなってる加具山さんを書きたかっただけ^^←
図らずも新年最初の更新がこれかよ^^
どうせならかぐ誕になるようなものアップできればよかったな、!