すべてそれは怠惰なる日々の戯言であり
彼の体温のわだかまる布団に触れ、身体中を彼の香りに包まれたなら、陥落はあっという間だった。
「ちょ…っ、」
驚きにひきつれた声も、荒い息遣いにかき消されて意識の淵から消える。何もかもがなくなっていた。無音で無色で無臭で、おれを包むものは体温はおろか空気の感覚までもが消えていた。目が回ったときのように脳みそがぐるぐるして、前も後ろも上も下も左も右もわからない空間にただ、彼だけがいる。何もわからなくなった頭の中でただ、次にとるべき行動は知っていた。操られるように申し訳程度に生えた坊主頭を撫で、ゆっくりと降下して頬に触れる。びくりと彼の身体が強ばる感覚が、おぼろげに伝わってきた。緊張してる?尋ねようと開けた唇は、あ、と意味をなさない単語をこぼしたきり何も言わなくなった。はは、誰より緊張してるのはこのおれ自身だ。ほらこんなに落ち着きなく指先は震えて、逆に喉仏は思うように振動してはくれない。日に焼けた頬を飽きもせずに撫で回していた手のひらで、ぎゅっとシーツにしがみついている指先を捉えた。ひくりと喉をふるわせて短く声を放ったのは、今度は彼の方だった。さっきまで伏せられていた睫がいつの間にか持ち上げられていて、さっきから泳ぎっぱなしの視線を窘めるようにまっすぐな目がおれを射倒す。怯むように眉を歪ませたおれの指先を、今度は彼の方からやんわりと絡め取られた。どんどんどんどんと、激しすぎるノックが心臓からあばらを突き抜けて薄いシャツへ送られている。目頭が燃えるように熱くなった。ああこの人はきっと、もうすべてを了解した上でこうして、溺れるようにじたばたと暴れるおれの手を握ってくれているのだ。
かぐやまさん、とようやく、おれにのみ許された呼称がこぼれ落ちた。糾っていた紐がほどけるように、目の奥から瞼の上を涙が滴った。ぽろぽろと零れて、握り合った手のひらに着地する。おれの下に組み敷かれたままただ上を見上げていた加具山さんが、弛緩したようにふわりと笑みを向けてきた。
「なに、泣いてんだよ」
空のままだったもう片方の指先が、さっきまでおれがしていたように頭に触れて、ゆっくりと頬まで下る。限界を知らないようにあふれ続ける塩水を拭って、加具山さんはその手までもをおれの指先に絡めてきた。崩れそうになったバランスを持ち直した途端に落ちてくる、手の甲に柔らかな感触。かさついて少し痛いそれは、確かに先ほどからおれが触れられずにいるそれだった。いつもは付き合い始めたらいちばんに済ませてしまう行為を、まだ終わらせていないと言ったら親友には大層仰天された。誰よりも驚いたのはおれ自身だ。こんなに、くちびるというものがこんなに神聖なものだとは、思ってもみなかった。大事にしたくて、傷つけたくなくて、汚してしまいたくなくて、今まで一度も、本当に触れたことがなかった。だからそのやわらかさもぬくもりも、すべて初めて味わうものだ。想像よりもかたくかさついたそれは意外なほどにあたたかい。
バカだなあと笑いながら彼は恥ずかしそうに頬を染めた。かすかに震える手のひらが、熱をはらんでやまない部位に当てられる。また手のひらが燃えるように熱くなって、今度こそ火傷したと思った。
「ばかはるな、」
「…え、」
「おれ、今、すげー緊張してんだから、…おまえがそんなじゃ、困る」
それからゆっくりと、添えた手を移動させて、今度は彼の方から指を絡め取られた。どくんと柄にもなく緊張するまもなく、普段はよっぽどのことがないと見せることのない柔らかな笑顔を向けられる。ああああやっぱり勝てない、勝ち目はない。こんな立場のときだって彼はおれなんかよりもよっぽど大人で、しかも男らしい。本当に、これ以上惚れさせてどうすんですか。ちゃんと責任とってくれるんですか。
「…おまえこそ、取る気あんの、責任」
だから。
どうして次から次へとそんな、殺し文句を。こんだけテンパって右も左もわかんなくなってるのに、これ以上あんたはおれをどうしたいの。もう既に雁字搦めになってんだから、勘弁してくれ。後戻りする気もないけど、そんな退路をふさがれたら本当に、道は前進しかなくなってしまう。おれがそんな袋小路に追いつめられるってことにも気づかずにやらかしてんだから、彼にとったらどうすることもできない問題なんだろうけど。そんなところまで完全武装してないで、ちょっとは晒しまくってる背中を隠す努力をして下さい、…どうせ言ったって無駄だ。
はあ、と頭を抱えて嘆息したおれに、なに、え、なに?と問いかけてくるのは未だ組み敷いたままの坊主頭。ああ、唐突に、現実が還ってきた。あれだけ焦がれた、大好きで大好きな人が、おれのものになろうとしている瞬間。いま。おれが動き出せば、すべてが始まる。おれに委ねられた、その身体と――ああ、彼のすべてだ。
「かぐ、やま…さん、」
「…ん、なに」
絡んだ指が軋むほどに力を入れる。それでも彼は眉のひとつも寄せぬまま、まっすぐにおれを見上げて首を傾げるのだ。浅はかだとは思わない。そんな彼が愛おしすぎるから困るのだ。浅はかなおれが、どんどん引きずり込まれていく。呑みこまれていく。感じるから、抵抗せずにはいられない。
「好きです。好き、すき、大好き。かぐやまさん、すき」
「知ってるよ」
きりりと指の隙間が傷む。
ああ、この瞬間、すべてが融けて交じり合っていくのだ。
確実に僕を燃す炎なのだ
(少しずつ、少しずつ、蝕んで)
/08.06
愚か者〜の続きを書こうと思ってたんだ、最初は。
ヘタレ榛名が好きです(告白
甘いのかと思いきやただの私のヒガミだったりしないこともなくもなかったり