香る。不快な、あの、ほろ苦い。
:: うつけは、どっち ::
「よー、ヒバリ」
緩く吹く風と共に、応接室の扉が開く。空けておいた窓に空気が抜ける途中、軽くまどろんでいた僕の頬を撫ぜた。
同時に意識が覚醒して、どこかで鳴く鳥のさえずりが耳朶を叩いた。風に流されて、桜の花びらが室内に侵入してくる。
太陽の光が、カーテンを引いていない窓から、燦々とふりそそぐ。
絵に描いたような小春日和だ。息が詰まる。
「……なに」
聞いたところで、答えがないことはわかっている。いつだって、彼の訪問には理由がない。
ただ、気が向いたから。そういう気分になったから、来てみただけ。動機は、それ以上でも以下でもない。
わかっている。
なのに尋ねてしまうのは、いつの間にか定着してしまった唯一の僕の弱みの所為。
「んー、いい天気だなーと思って」
目を細めて窓の外を見ながら、一歩ずつ近寄ってくる。
5メートルあった距離が、3メートル、1メートル、50センチ。
このキョリって、だいぶ近いよ。ねえ、気付いてる?その気になったら、いつでも咬み殺せてしまう、バカだねキミ、そこは既に、射程距離だよ。
無知は残酷だ。
何も知らないで、土足のままテリトリーを荒らして、何事もなかったかのように知らぬふりでいなくなってしまう。自覚がないなんて、たちが悪い。
いつだって殺せる、どうしたって殺せないなんて、知らないだろう。僕自身知らなかったんだ。どうして殺せない。…理由は、すぐに思い当たったのだけれど。ただ、認めるのに少し時間がかかっただけで。
「あ、ヒバリ、ちょっと動かないでな」
「なに」
「いーから。すぐ終わるって」
言ったと思ったら、一瞬でキョリは縮まって。50センチが、ゼロになる。
触れたのは、てのひらと髪。
ふわりと、体格には似合わないやんわりとした動作で触れられて、つられて同時に世界がスローモーションに動き出す。少し日に焼けた顔がぐっと近づいて、眼界からすっと消えて、それからゆっくり少し離れた場所に現れて、てのひらに桜の花びらをのせて、にこりと笑う。
笑顔とのキョリは50センチメートル。
手を伸ばせば、届いてしまう。いっそ、あと、30センチ。離れてくれればいいのに。本当にバカだ。
「へへ、桜、ついてたぜ。かわいーかわいー」
微笑む歯に太陽が反射して、世界が白む。今、手を伸ばしたら、どうなるだろう。
この手は。
空を掻くだろうか。それとも、見た目よりも細い腕を、つかんでしまうだろうか。
退屈していた。賭けに出てみるのも悪くない、と。
そう思ってしまったのは、依然彼とのキョリが50センチメートルだったからだ。
瞳を覆わないまま、未だ白んだ世界の中に手を伸ばしてみる。
その様はまるで何も知らない赤ん坊のそれで、おかしくなって、少し嘲った。
「……あ」
声を上げたのは、果たしてどちらか。
気付くより前に、くちびるが重なった。震えたそれを伝わって、あるいは二人の声となったのかもしれない。
そんなことはどうでもいいほど、思ったよりも甘美なそのくちびるの味に酔って。春の重苦しい暖かさに酔って。
どのくらいかはわからない。短いかと問われればそうかもしれないし、長いかと尋ねられたらそれも否めない。
そんな、くちづけと呼ぶにはあまりに稚拙な動作ののち、彼はその大きな目をぱちくりと瞬かせた。
ああ、なんて、無垢で無知。そして、残酷。
「……ねえ」
「…あ、え、うんっ」
「いつまでそうやって固まってるつもり?」
我に返ったように慌てだす彼。
やっぱり、反応が普通じゃないよ。少しは怒ってみたらどうなんだい。その瞬間、僕は気持ちよくキミを咬み殺すことができるって言うのに。
いつまで経ってもイタチごっこの堂々めぐりだ。そんなのには、飽きてしまったのに。
「ごっ、ごめん……っ」
意味が分からないよ、何でキミが謝るんだい。もっと、敵意をむき出しにして怒れと言うのに。まったく、期待外れだよ。
そんなことをしてるうちに、ほら、戻って来てしまった。口の中に、大キライなあの、ほろ苦い味が。
「まだ答えを、決めかねているの」
問うと、かすかに身じろいでくちびるをてのひらで覆った。ぬぐいはしないところが、そのまま答えだ。
「……バカだね。そうやって、退路を塞ぐだけなのに」
「っ、ヒバ…」
「退屈していたんだ。そうそう、遊びばかりじゃ時間はつぶれない」
睨むような目で見つめてみると、面白いほどに動揺して、かすかにあとずさった
50センチメートルが、80センチ、1メートル、1メートル30センチ。次第に開いていく、キョリ。
それでいい。早く、そのまま走って扉を開けて、ここから出て行け。僕のテリトリーから、すべて、跡形もなく。
そうすれば、忘れる。
バカみたいに甘いくちびるも、ほろ苦く色づいたくちびるでも。近づくたびに仄かに香る、あの匂いも。
「つかまったら、逃げられなくなる」
(そう、この僕のように)
パタンと音がして、扉が閉まった。彼の姿は、もうここにはない。
彼が逃げたのは、果たしてどちらのためなのか。バカらしい。答えはとうに出ている。既に手遅れなのだ、どうしようもない。
口の中に未だに残るほろ苦いタバコのフレーバーと、取り残された桜の鮮やか過ぎる桃色が、心臓の辺りを刺激して止まなかった。
(スキだなんて、言えるもんか)
/07.04
片想いブーム第1弾、獄山←ヒバでした。
山本が大好きなヒバリ様が好き。紳士なヒバリ様が好き!(紳士?