僕にとってそれは恐ろしくなどなく。
言うなれば、もっとも現実的でない、ぼんやりと霞がかった黒い陰だ。
『謀反が起きやがった。ヒバリ、おまえ行ってこい』
赤ん坊ながらにして僕が認めるほどの力を所有していた男は、あのころよりも幾分か成長した声で命令を下した。あとから、肩身の狭そうな顔をした男が、お願いします、と。ゆらりと揺れた瞳の意味は、その後すぐに知れた。
『ヒバリ、待って』
踵を返して部屋から出ようとした僕の背中に届いたのは、神経を逆なでする明るい声。嫌々ながらも振り向けば、変な笑顔の男が立ち上がって僕を見据えていた。
『おれも行く』
巧みに隠された馬鹿みたいに握りしめた拳は、残念ながら僕の角度からは丸見えだった。
どさりと音がして、生ぬるい液体が頬に付着する。つ、と顎を伝って流れるそれは、不快感を煽るものでしかなかった。
それでなくともむさるような熱帯夜で腹が立っているというのに、そういうときに限ってこうやって胸くそ悪い事態は立て続けに起こるものらしい。
「ヒバリっ!おまえ、先行くなって」
「別に、僕の勝手でしょ。きみは勝手に着いてきたんだから、勝手にやってれば?」
「……おまえなあ、」
はあ、と呆れたように腰に手を当てて息をもらす。腹が立つことに僕よりも視線の高いその男は、やがて伏せた目線をさまよわせて、一点で制止した。まだ一度も使っていない綺麗なままの刀身が、握り込められて角度を変え、鈍く黒い光を反射する。
「もう片付いたのか、全員」
「ここにいたのは、ね」
「……そ、か…」
律儀に返してしまったのは、質問をするくせに顔を上げないやつの態度に腹が立ったからだ。堅苦しいスーツを翻して背を向けると、後ろからちゃり、とかすかな金属音が耳朶を叩く。何事だと振り向いてみれば、馬鹿なあの男はとうに息絶えた足元の残骸に屈みよっていた。視線を感じたのかあげられた瞳は、一瞬、あの刀身と同じ色に輝いて、次の瞬間にはいつも通りの(そこまで彼の日常を知っているわけではないが、あくまでイメージの問題だ)へらんとした笑顔を見せた。尋ねる間もなく僕の表情から問いを悟ったらしき男は、ゆっくりと死体を仰向けにしてごそごそと懐を探る。
真摯な眼差しで死体の懐を弄る男、そしてそれを怪訝な顔で微動だにせず見下ろす僕。端から見ればそれはさぞかし奇妙な様に違いない。それを言うなら、僕たちの行為自体が「普通」から見れば「異常」だ。そんなこと、今更なんだろうけど。
ようやく目当てのものを見つけたのか、男は握りしめた拳を死骸の懐から取り出すと、最期の恐怖に見開かれた瞳をそっと閉じて立ち上がった。
「…なにしてるの」
声に出してみればそれはなんと陳腐な問いかけで、山本はちらりと僕の方を見向いてから手を差し出した。広げられた手のひらの上に乗せられた、銀の鎖。
「もう自分の部下じゃないって?」
彼が自らの統率するチームの部下全員にこれと同じネックレスを着けさせていることは、ボンゴレの内では有名な話だった。幼い頃にスポーツをやっていたこともある彼はチーム意識を重んじるからではないか、と言うのがもっぱらの見解ではあったが、実際のところは誰も聞いたことがないから知らない。別に知りたいわけでもなかったから、僕がその件について触れたことは皆無だった。
それにしても、一種の「仲間の証」であるそれ(まったく薄ら寒い鎖だ)を取り上げたということは、そういうことなのだろう。当然と言えば当然だ。やつらは謀反者。彼らにとってはもう、敵以外の何者でもないのだから。しかし、彼は首を横に振る。
「……じゃあ、」
「形見」
なに、と続ける前に答えは返ってきた。再び握りしめられた手のひらの中で、金属がこすれあってかしゃんと音を立てる。
形見。首に提げられた鎖。硬質の金属。仲間の証。裏切りの象徴。
すべてひとつになって彼の手のひらの上で転がり、鈍い音とともに散り散りになって無機質なコンクリートへ降り注ぐ。
「殺されるのは別に、かまやしないんだ」
視線は粉々になった金属の塊に注がれている。隣には、もう動かなくなったかつては志を共にしたもの。だらんと垂れた手のひらは白く変色して、次には赤い液体を肉塊の上へと降らせた。
「ただ、おれは、」
「………」
「…おれ、は、」
らしくもなく、僕は自分から歩みを進めた。いまつなぎ止めなければ、彼はどこかへと漂っていってしまう。これは予感じゃなく、確信だった。彼のことを特別知っているわけじゃない。だけど送られてくるSOSのサインに、たまたま応える気になっただけだ。わかったところで僕は鎖を使う気などありはしない。ふと、先ほど地に落ちた銀が靴底に当たって音を立てた。嗤いが、こぼれる。そんなちっぽけな物質にまかせるには、これは重すぎるだろう。
返り血の付着した手で、彼の頬を撫でる。ぴくりとも反応せず、彼はただ一点を見据えたまま、背中に回る僕の腕を甘んじて受け入れた。動かない身体、後頭部を押さえつけてやれば、力を抜いたように肩口に体重を預けてくる。
「きみはもっと、自分の背中の大きさを理解した方がいい」
「………」
「それから、手のひらの大きさも」
「……っ、あんたは」
すがりつくように彼の両手が僕の背中を掴んだ。彼とそう変わらない広さの、背中。問題は、その大きさを自覚しているか否かだ。
「あんたは、ひどい、ひとだ…」
「今頃気づいたのかい」
少しずつ湿ってくる漆黒のスーツを感じながら、ああこの服装はまるで、喪服のようだと、思った。
21gを否定しない
(けれど、哀しみになど呉れる気もない)
/07.08
主催山受webアンソロに掲載したもの。
部下に裏切られた山本。その殲滅を命じられた雲雀。
ヒバリさんはやさしいひと。そのやさしさに触れるのが痛い山本。…な、妄想^^(ぶち壊し!