宵の海が、好きだった。
視界を奪われ、聴覚のみが心地よく犯される。砂浜に足を奪われて、動くことさえ出来なくなった。ただ、冷えるといけないからと渡された長めのコートだけが、潮風に遊ばれてはたはたと揺れる。空気を含んでばさばさ鳴く音は邪魔なことこの上なかったけれど、脱ぐのはよしておいた。
耳を澄ませて潮の音に集中する。と、途端に意識は海中に引きずり込まれて、おれは一瞬で陸地のいきものではなくなれた。足がない、かといってヒレもない。なんでもない、物質。が、海に融ける。
そのまま目を閉じていれば、やがて海中でだって息が出来そうな気がしてくる。ゆっくりと足を進めれば、波に打たれた足が少しずつ泡になっていくのを感じた。水の中で気泡に変わったそれは、海底を這ってとおくへ消えていく。
昔、海には神様がいるんだよと聞いたことがある。人は死ぬと、みんなそこに還っていくのだと。
彼は死んだのだと聞かされた。死ぬなというのならキミより先には死なないよ、と豪語していた彼が、いなくなってしまったのだと聞いた。
それを告げたあの人はそういう嘘だけはつかない人だから、きっとそれは本当なのだろう。自分が愛したあの人は、還ってしまったのだ。生まれた場所に。源に。おれのいないところに。
冷えた手を暖めようと入れたポケットの中に、ひとつのビンがあった。爪先に当たる無機質な物体はいつの間にか人肌に暖められていて、わずかなぬくもりを運んでくる。中身はええっと、何だったかな、白く、白く色づいた粉。ああそうだ、それはかつて、彼の一部だったものだ。
これがここにあったら、彼はあの場所まで還れないのかな。還れない、でもおれのところにはいない、ならば彼は今、どこにいるのかな。
考えても埒の明かない問題だった。他人は答えを知らないし、唯一答えを知っている人はおれの知らない場所にいる。
はっきりとした場所は知らないけれど、そこは道の途中なのかな。部品が足りないから、動けずにいるのかな。それならばもう少しそこで、待っていてくれないかな。我侭かもしれないけれど。待つのは嫌いだと言ったあなただけど。約束破ったんだから、それくらい。
だってどこかに君がいてくれなきゃ、おれが死んだとき、そこに還ることはできなくなってしまうんだ。そこにいない彼が、おれの一部だから。いつまで経ったって、部品が揃わない。おれが、できあがらない。だから。
ばさり、と風が吹いてコートが鳴いた。気づけばおれの身体は胸の辺りまで水に浸かって、下半身はすでに泡と消えてしまっていた。とおくのほうで、声が聞こえる。おれを呼ぶ声、それから、キミはホントに、と呆れたような声。まだおぼえている。ポケットの中で眠っている。ビンの中で息づいている。濡れた手のひらの中で、透明のビンが月の光をかすかに反射した。いつの間にか、すっかり冷たくなった。
ちかいところで声が響く。知らず、おれは海底に手を伸ばし、鋭利な石を拾った。鈍く光るそれを指の先に走らせると、じわり黒い液体が滲む。コルクを抜いたビンの上にその指をかざせば、ぽとり、ぽとりとビンの中が黒く染まっていった。白と黒が融け合って、海の色になる。ようやく同じものになった物体を、母なる海に、還るべき場所に、落とす。
融け合って、見えなくなった。声も聞こえなくなった。
ビンの中に残った液体が、頼りなさげにちゃぷんと揺れる。自分の中から湧き出た液体、と、彼の一部だった物体。
おれは再び目を瞑り、それをごくんと飲み干した。
(どうか、待っていて、おれがいくまで)
/07.11
主催企画に載せたもの。…というかコレは山受けなのか
一応ヒバ山のつもりです気持ち悪い世界観が好き^^