檻

    感覚としては、
    深い落とし穴に落ちたかのような。

    光は見えるのに、
    いつまでも追いつかない。


















    「あれ?先輩」
    「ん?」


    突然背後から声をかけられて後ろを振り向いたら、そこにいたのは知らない顔だった。


    「…………」


    よく考えたらそれは聞いたことのない声で、彼の言う「先輩」が自分のことではなかったのかもしれない、といたたまれない思いを抱く俺に、返ってきたのは満面の笑みで。


    「やっぱり、先輩だ。持田センパイ。」


    にっこりと、名前を呼ばれる。俺に声をかけているだろうことは振り向いた瞬間にわかっていた。それでもやはり、相手は知らない顔だ。ならば人違いか何かかと思っていたのだが。はっきりと名前を呼ばれたということは、顔見知りなのだろう。…自分はまったく、思い出せないものの。


    「……誰だお前。なんで俺の名前…」


    問いかけると、またしてもにっこりと。
    誰彼問わず好かれるタイプだろうなぁと、初対面(少なくとも、今の俺の記憶では)でそう思った。笑ったときにちらりと垣間見える白い歯が印象的で、目が話せない。人の目を惹きつけてやまない、というのは、まさにこういうことを言うのだろう。


    「センパイ、ツナ…沢田と勝負してましたよね」
    「………」


    嫌な記憶を掘り出されて、俺はやや不機嫌になった。
    そうだ、それはほんの数ヶ月前。気に入っていた女にセクハラまがいのことをしたと言う後輩を懲らしめようとして、返り討ちにされた。俺の面目は丸つぶれだ。これが、楽しい記憶のはずがない。
    この試合のことを知っていると言うことは、彼もまたその他多数の人間と同じく、でかい口を叩きながら後輩にしてやられた俺をあざ笑いにきたのか。あれから時間もたって、最近ではそんな話題さえ出なくなってきたと言うのに。
    拗ねたように(我ながら子どもっぽい)無口になった俺に、顔も知らない後輩はにかっと歯を見せて笑う。あまりに笑ってばかりだから、彼はこの表情しか出来ないのではないかと疑ってしまうほどだ。


    「…だからなんだ。悪かったな、剣道部の恥を曝して」


    調子が狂う。彼が何をしたいのかわからない。
    何度も嘲笑とともに紡がれた忌々しい言葉の羅列を、浅はかにも自分で口にした。そうでもしないと、間が持たないと思ったのだ。


    「………。」


    間が持たない?持たせる必要なんかないじゃないか。そのまま無視をしてこの場から離れてしまえば、もとより関わりの強くない(だろうと思われる)彼からは逃れることが出来る。
    そんな簡単なことに気付いたのは、もうそれを成すことが不可能になってしまってからだった。


    「そんなことないっすよ」


    力強く否定されて、慌てる。
    何を慌てているのか。何がこんなにも俺を高揚させるのか。
    わからない。けれど、きっとこのまま流されてしまえば大変なことになるんだろうと頭の端っこで思った。


    「俺、誰かのために熱くなって戦えるなんて、すごいなぁって。カッコいいなぁって、先輩のこと、尊敬してるんす」


    いつの間に笑みが消えたのだろう。硬い声で告げられて、冗談で交わすことさえ不可能になってしまった。
    もっと、笑顔だけじゃなくて、他にももっと。
    変わりゆく表情を追って、手に入れたいと思ってしまった。






















    「お前、名前は?」


    囚われたのは自分だと、今頃気付いてももう遅いのだろうけど。














    /07.03

    持田先輩×山本第1弾!(例の如くマイナーシリーズ
    とりあえず先輩×山本にものすごく萌えるらしい。敬語もへ!