暖気を含んだ強い風が、頬をなぜて通った。胸に抱えた赤い花が、風にあおられて首を振る。まぶしい日差しをさえぎるように手をかざすと、赤い血潮が透けた。
小高い丘の上に、それはある。町内を広々と展望できるこの丘は、しかしひっそりと静まり返っていた。声を発することのない無機質な木や花や石たちが、ただ、在るだけ。
大きく息を吸い込んで、山本はぐーっと伸びをした。目の前には、何もしゃべらない、墓石。
「久しぶり、かーさん」
もうひとつ、強い風が。凛と吹いて、短く切りそろえた髪を揺らす。はは、返事してくれたみてぇ、と、山本は少しだけ笑った。それから、小ぢんまりとした墓の端に位置する水道から拝借してきた水を、墓石の脇の竹筒に注ぐ。脇に抱えていた花の茎を短く切って挿すと、増えた体積分の水が、あふれ出てきた。
あれから、どれくらいの時がたったのだろうかと考える。
そんな至極簡単な問いを掲げることさえ、日常生活では皆無に等しい。こうして問いを提示した今とて、正確な答えを出すことはできないのだ。親不孝者といわれれば、そうなのかもしれない。少なくとも、否定はできない。かといって、好きじゃないのかといわれればそれもまた否で、好きなのかといわれればそれもまた然りだった。無責任だとは思うけれど、わからない、という答えがもっとも近いのかもしれない。
あの頃の自分は、幼かった。
母という存在が自分にとってどういうものなのか、そんなことは知りえなかった。そして今も、それを知ることはない。唯一無二だった母親は、今はもうこの墓石の下で、安らかに眠るのだから。
どうして死んでしまったのかだとか、自分は彼女に何を残してあげられたのかだとか、彼女は自分に何を残してくれたのかだとか。そんな問いは浮かんでこなかった。ただ漠然と、母親はもういないという事実が在るだけ。悲しさも存在しない。あるとするならばそれはきっと、形もわからない虚無感。
(…………)
墓石の隣に生えていた雑草を、抜いた。その時点で、この雑草のいのちは潰えた。
そういうことなのだ、つまり。動機だとか理由だとか過程だとか、そんなのは別段意識しなくても、最後に結果はついてくる。自分の生きる「いま」が、その結果である、だけ。別に父親と二人きりの生活に何の不自由も感じないし、生きるのが苦痛かと聞かれればそんなことはまるでない。十分に「いま」を、楽しめている。
それなのに時々、違う「いま」があったならばどうだったろうと、考えることがあった。だって自分は、今生きているこの結果しか、見たことがないのだから。違う場所から見る景色はどのように違うのか。興味は、ある。
「……なあ、」
握った手が、ぬれている。柄にもなく緊張しているのかと、少し笑った。つけてみようかと持ってきた線香が、握り締めた指の中で、ぽきんと音を立てて折れる。半そでのTシャツから露出した腕が、少し寒い。季節はもうとうに、変わったと思っていたのに。
「あんたがもし、いま、」
ざあっと風が凪いだ。木々が揺れて、雑草が揺れて、赤いカーネーションが、揺れた。
問いは、そのまま風の中に巻き込まれて。返事はないまま、遠くのほうで鳥の鳴く声が聞こえた。そのさえずりがやけに綺麗で、もう何も、どうでもよくなる。はあ、大きな息が漏れた。もとより、こんなにいろいろなことを考え込むようなたちじゃない。少し、疲れた。
後ろに手をついて空を見上げると、青空に一筋の雲が浮かんでいる。ああ、明日は雨かな、ぼんやりと思った。理科の勉強が得意なわけでも、明日の天気を当てるのが得意なわけでもない。ただなんとなく、思っただけだ。なのになぜか、外れないだろうなとも思った。
「あー、青いなー」
そう、空はこんなに、青いのに。
そっと目を閉じる。風の凪ぐ音。鳥のさえずり。それから。
「あら?山本くん?」
聞き覚えのある、耳に優しい、声。ぱちりと目を開けると、そこにはまた、見慣れた顔、が。
「あ……、ツナのお袋さん」
「こんにちは」
(…………)
この感覚を、なんと呼ぶのだったか。ああそうか、デジャヴだ。
目をしばたかせながら、山本は思った。それがいつのデジャヴなのかは知らない。知りえるわけがなかった。だってそれは生まれたばかりの頃の記憶。脳の片隅に今でも残る、初めての、記憶。
「ちょうどよかった。これからうちで、母の日のパーティーをするんですって。よかったら山本くんも、どう?」
「え、あ、いいんスか?」
「もちろんよー。だって、山本くん、」
もう一度、風が凪ぐ音がした。最後の言葉をさらってくれてよかったと、山本は心から思う。だってそんな言葉を聞いたら、ばかみたいに涙を流してしまいそうだったから。
それじゃあいきましょうか、と手を差し伸べてくれる人を見上げながら、もう一本カーネーションを買っていこうと山本は考えていた。
世界一真っ赤に染まった、母の花を。
/07.05
当日の10時近くに気づいて慌てて仕上げた母の日SS。
山ものお母さん生きてたらどうしよう…勝手に殺しちゃってごめん!
ちなみにタイトルはRGB表示で「赤」を表してます(わかりにく^^