:: あの丘、蜜柑の薫り。 ::
「へい、らっしゃい!!」
がらがらっと軽快な音を立てて引き戸を開ければ、響いてくるのはそんな声。
相も変わらずねじりはちまきを巻いた中年の男が、爽やかな笑みを投げかけてきた。
「ああ、おめぇ……」
「チャオッス」
「そうかそうか、今年ももうそんな時期になったか!…ちょっと座って待ってな、なんか握るからよ」
「悪ィな」
「なになに、いいってことよ!ボーズはすっかりお得意さんだからな!」
ちょっと待ってろよ、と言われ、リボーンは湯呑みの置かれた席へと腰を下ろした。
「……………」
ししっと歯を出して笑う顔は、
なるほど、よく似ている、と思う。
リボーンは、日本固有の文字で「竹寿司」と書かれた湯呑みから、ずずっと熱い茶を一口すすった。
曇りガラスを見据えて、ああ変わったな、と目を細める。
たったの10年。されど10年。
こういう世界に身をおいていると、時間感覚が著しく麻痺させられる。
それでなくても運命というのは気まぐれで、いつだって大切なものをさらっていってしまうから。
今という時に自分と彼が存在しているということ自体が、
たぐいまれなる奇跡なのだと思い知らされる。
そんな風に思えるようになったのは、ごく最近の話だ。
どんな形であれ、そのきっかけを与えた男にこうして会いにくるのは、かれこれもう8度目くらいか、とリボーンは湿った息をついた。
熱い煎茶は、喉の奥をちりと刺激する。
「へい、おまち!ボーズはいつもいいときに来やがるからな、新鮮で旨いぞ!!
その大トロなんて、今朝浜に上がったばかりのマグロでぇ!」
「当たり前だ。どうせ食べるなら旨い方がいいからな」
「ははーん、言うねぇ!」
へへっと自慢げに鼻の下をこする剛に、リボーンは不躾にも握り上がった寿司を口に含んだまま言った。
ネタとシャリの間に挟まったわさびに何の反応も示さず特上の大トロを食べ終えたリボーンに、あの男は「すげぇな」と言ったことがあった。
何がだ?と問うリボーンに、山本もトロの握りを一貫口に含んで咀嚼した後、特徴的な笑顔を浮かべる。
『小僧、ちっせーくせにわさび平気なんだなーと思って。俺、小さい頃はサビ抜きしか食えなかったんだぜ!』
『……バカだな。これがあるから旨ぇんだろうが』
『ははっ、さっすがこぞー!よくわかってんなー』
頭の後ろで手を組んで背もたれに体重を預けながら、そーいえば小僧、コーヒーも砂糖入れずに飲めるもんな!と嬉しそうにまた、あの男は言った。
なにがそんなに嬉しいんだ、と思いながらも、悪い気はしない。
『コーヒーじゃねぇぞ。エスプレッソだ』
『へー、すげー!』
理解していないくせにやたら笑顔を振りまく山本を横に、煎茶を口に運ぶ。
ふぅと息をつくと、シブい!とまた笑われた。
外に出ると、春の生暖かい風が特徴的に伸びたもみあげを揺らす。
どこからか甘ったるい匂いが流れてきて、リボーンは誘われるように空を見上げる。
どこまでも青い。
まるで世界の果てまでずっとこの青が続いているような気がして、リボーンはくっと目元を隠すように帽子を深くかぶり直した。
ゆっくりと流れる風と共に、真っ白い雲が青を乱す。
ああ、翳る――と思うよりも先に、光を遮る影が差した。
瞳は帽子の中だ。何も見えない。
それでも、薫る。
「よ、こぞー」
「チャオッス」
そこにはもちろん、感動の再会なんてものは存在しない。
ただ漠然と、二人の男が在るだけだ。
それと、甘い香り。混じって、柑橘系の、鼻に通る清々しい匂い。
「久しぶりなー、元気にしてた?」
「ああ」
「ツナたちは?獄寺とか、ヒバリとか、元気?」
「ああ」
「寿司、食ってきた?」
「ああ」
少しの、沈黙が落ちる。
待ち合わせをしたわけでもなく、まるでそれが必然なのかのようにやってきた小高い丘の上で、背中の下に生えた雑草がざわめいた。
さわさわと、木々が鳴る。
桃色の花弁を散らせる風はやっぱり甘い匂いを含んでいて、リボーンはふぅと鼻で息をついた。
ぬるま湯につかりすぎるのはよくない。
熱湯――あるいは氷水に足を踏み入れることに、躊躇いが生まれてしまう。
ふやけた身体では、しっかりと地に足つけて立つことさえ出来ない。
こどもだなんて関係ない。こどもだなんて思われたこともない。
自分の足で立って、自分の足で歩くのが当たり前の世界で生きてきたから、
久しぶりに足を休めて飛び乗った人の肩は、ひどく居心地がよかった。
「俺な、毎年、ちゃんとわかるんだ」
「……………」
「小僧がここに帰ってくる日。絶対、庭先の金木犀が満開になる日だから」
朝、扉を開けてふわりと流れてくる独特の香りを嗅ぐと、ああ今年も来てくれるんだって嬉しくなる、と、呟くように話す。
それはまるで、独り言だ。
風向きが変わって、金木犀の香りが鼻先から離れた。
代わりに先ほど少しだけ感じた柑橘の匂いが鼻腔を擽って、一瞬ののちに離れていく。
でも、と山本が呟いた。
「甘い匂いばっかり嗅いでると、酔っちゃいそうだからさ。俺、みかん買ってきたんだ」
ちょっと季節外れだけど、と笑う声が聞こえて、漂う香りが本格的に橙に染められた。
冬の訪れを感じさせる、すこし涼しい香り。
だけどそれは時に懐かしさを感じさせて、とても温かくなる。
食物繊維の切れる音が小さく聞こえて、口元にひやりとした温度が触れた。
「リボーン」
突風が吹いて離れていく帽子を難なく繋ぎとめてかぶりなおそうとしたところで、右手をつかまれる。
切なげに眉を顰めて、山本は口元に笑みを浮かべた。
「来年も、再来年も、そのまた次の年だって、たぶん金木犀は咲く、……よな」
「………ああ、そうだな。たぶん」
「俺、ちゃんとみかん買って、待ってっから」
だから、と口ごもる山本をやんわりと制して奪い去ったくちびるからは、まったく時期外れの蜜柑の味がした。
皮を剥いて、半分に割られた蜜柑の片割れが、風に攫われて丘を駆け下りていく。
風の薫りが、わからなくなった。
「………すっぱいぞ」
不満げにくちびるに触れながらリボーンが漏らした言葉に、山本は「こどもなー」と言って、やっぱり笑った。
/07.01
大人になれる場所、子どもに戻れる場所。
大切な、アナタの胸の中。