ドンファンの真夜中に羊はいない
おれたちの世界の住人にとって、夜は睡眠に沈み身体を休める時間ではない。もちろんいつだってそうだというわけではないが、大概がそうだったから、身体のほうがすっかりそんな生活に慣れてしまった。慣れというものは、怖い。普通ではありえないことなのに、いつの間にかそれが自分の中で「普通」になってしまっていて、何かの異常が起こったところで気づきもしない。身体がまったくいうことをきかなくなって、手遅れになったときに初めて、気づくのだ。今日だって、そう。
無理やりに寝かされた布団の中から白い天井をじっと睨んで、バカ野郎が、小さく悪態をつく。頭に浮かぶのは、かつてオレの教え子だった組織のボスの顔だ。まだまだボスの器には程遠いが、あのころに比べればなるほど、幾分かマシな目つきをしてきた、それでもおれに言わせればまだまだガキの。いつの間にあんなに生意気になったのか、命令を下したあの顔を。みんなに命令なんて形で強制したくないんだと日々言っているのはどの口か。これは強制しざるを得ないとアイツが判断した結果なのだろうが(そして、客観的に、あくまで客観的に見れば、その判断は間違ってはいない)、腹が立つものは腹が立つ。風邪を引いているから寝ていろだなんて、母親がガキにいうセリフだろう(ガキはてめえの方だろう)。
ふわふわとしたベッドは居心地が悪くて、何度も寝返りを打つ。こんな調子で、なんだかんだで布団に入ってから一睡もできていない。身体はたしかに重くて体調の悪さも実感があるのに、こんな風にいかにも、生ぬるい雰囲気は落ち着かない。外は真闇で、明かりを消したこの部屋は光源などありはしない。でも、明るすぎる。おかげで、意識はずっと覚醒したままだ。
眠れない夜にはどうするんだったか。いつか、誰かが言っていた。覚える必要もない、だから削除した、なのにまだ脳裏に残るこの、呪文は。いったい何か。
暗闇に融けて、羽毛に埋もれる。やってくる浮遊感が不快でならない。もうひとつ寝返りを打った、その瞬間に。
部屋の外に感じた気配、次いでキィと扉の開く音。気づけば反射的に愛銃に手をかけて腰を浮かし、銃口を向けていた。
「…………」
鈍った判断力を自覚する。ここが他のどの場所よりも安全だということは、おれがいちばんよく知っている。どうして敵が入り込んできたなんて、思ったのか。
案の定、ぽけっとした面持ちの男が小さなお盆を左手に乗せて、目を白黒させている。言外に「え、え、どうした?」ととぼけた声が聞こえてきそうだ。おれは苦虫を噛んでなんでもないと返すと、引き金に添えた指を下ろした。首をかしげながら、山本はようやく室内に入り込んでくる。右手で明かりのスイッチを入れられて眩しさに目を眇めた。慣れきっていない瞳がちかちかする。
かちゃりとベッドサイドのテーブルにお盆を置いた音がして、山本はこれ、薬、と一目瞭然な事実だけを告げてベッドの端に腰を下ろした。ベッドの重心がずれて、大きくきしむ音がする。
「飲める?」
問われて、なめんなと返して、後悔した。こんな風に答えたら、飲まざるを得ない。にやりと笑って水の吐いたコップを差し出してくるこいつも、いつの間にかずいぶん生意気になったもんだ。してやられた感は否めないが、これといって反論する理由もないから、素直にコップを受け取ってひとつ、にやりとさっきの彼と寸分違わぬ笑みを返す。ぎくりと身体を強張らせた山本の腕を、水の入ったグラスとまとめて掴んで、引き寄せた。残念ながら、山本、まだまだおれのほうが何枚も上手だったみたいだぞ。
「おれは病人だからな」
「あ、うん、」
「ちょっとは労われ。立ち上がるのも辛ェんだ」
「……さっきあんだけ俊敏な動きで応戦体勢に入ったヤツのセリフかよ」
口の端でにっと笑うと、あきらめたように息をついておれの手からコップをかっぱらった。大げさな動作で錠剤と水を口の中に含んで、すっと顔が降りてくる。やはりそれなりに熱はあるのか(はたまたこの男の体温が異常に低いのか)、触れた頬の温度が心地よくて、流し込まれた錠剤をごくりと嚥下したのち、離れていきそうになった後頭部をぐっと掴んで、さらにくちづけを深くした。むさぼるように、冷たい口内を犯す。ほどよく温度の下がった水分はすんなりと食道を通り、身体に染み渡るよう。くぐもった山本の声が鼻から抜けて、ただでさえ高い体温をさらに上昇させる。は、と最後に熱い息を吐き出しながら、開放した山本の体温がゆっくりと離れていく。
「元気そーで、なにより」
「おかげさまでな」
何度繰り返しても、こいつはキスの合間の呼吸が巧くならない。上がった息を整える姿が嫌いじゃないから、うまい呼吸法を教える気はさらさらない。恨めしげな目で見下ろしてくる山本を無視して、薄く目を瞑った。それでもどうやら、眠気がやってくる様子はなく。ふと指先に冷たい感覚が触れて、目を開けた。
「…なんだ」
「こぞーさ、今まで寝てなかったろ」
別に寝ていたと嘘をついていたわけでもないのに、なぜか見破られてしまったような気がして、居心地が悪くなって寝返りを打つ。本当はヤツと反対方向を向こうとしたのに、触れてきた冷たい手がそれを許さなかった。
「だって全然汗かいてねえじゃん。こんな熱いのに」
ぎゅっと握りこめられて、触れた温度が次第に融けて、いっしょになっていくのを感じる。融け合った温度は思ったよりも心地よくて、もうどうでもよくなって、再び目を閉じる。
――眠れない夜にはさ、
声が、よみがえった。
「電気、消す?」
「…いい。つけとけ」
ふふ、笑った気配には気づかないふりをする。せめてもの抵抗として握った手を強くすると、いてーって、と窘めるようにまた笑われた。
もうどうでもいいから、眠ろう。思えたのは、果たして薬の所為か。
はたまた。
(この温度が、あればいい)
/07.07
主催山受webアンソロに掲載したもの。
せっかくだから「愛人」のフレーズを使いたくて相手リボ様にした…んだ、けど。
結局使えなかったな(理想とかけ離れたものができたの^^