05:背中合わせ
練習後の部室は、これでもかと言うほど汗の臭いが充満する。それは傍目から見れば顔をしかめてしまうかもしれないが、小さい頃からそんな環境にいるのが当たり前だったおれたちからしてみればそれは至ってふつうのことで。あとはチャリに乗って風を受けながら帰るだけだ、女子みたいに周りに気を使う必要もないから、デオドラントスプレーなんか使うことがない。たまにこれから電車乗らなきゃなんねえから臭いがな、と制汗するやつだって、スプレーだと室内に臭いが充満して汗と混じってすごいことになるから、とシートタイプのものを使っている。だけどこういう配慮からくる部室内の香りは、おれにとって危険極まりないものだった。端的に言えば、充満する汗の臭いはおれにとって毒以外のなにものでもない。くっさい制汗スプレーの臭いが混じった方が、よっぽどましだ。はやる気持ちを落ち着けて、ああなんでおれのロッカーってこの位置なんだろ、いや嬉しいよ嬉しいけど自分の理性の脆弱さはおれがいちばんわかってる、からこそやめてほしいと願うのに。ふわりと黒いアンダーシャツを剥いだ途端に漏れる香り。ああもう、と気を紛らわすためにすっぽりとカッターシャツを羽織ったと同時に、ふれる温もり。え、と顔を向けると覗く、剥き出しの肌色。
「―――っ!せんぱ…っ」
「なに勝手に帰る気でいるんだ、馬鹿榛名」
「勝手にって、な…え?」
「今日は一緒に筋トレつきあうって約束だろ」
そんな約束してましたっけ、と後ずさって周りを見渡せば、がらんと静かな部室。こういうときに限ってあの先輩たちは帰りが早い。ああああどうしてくれるんだ、このうるさいくらいにわめき続ける心臓を。落ち着ける術などおれはもっていないというのに(いつだって周りがとめてくれると思っていたから)(自主規制の術など、必要ないと)。
「やっぱりお前、聞いてなかったな。ちゃんと練習中に、言ったのに」
「スンマセン、ちょっとぼーっとしてて…」
ごめんなさい、聞いてなかったことは謝るから、近づかないで。
そんなことは言えるはずもなく(言いたくもない)、苦笑いとともに胸の前で手を振ると、加具山さんは睨むようにおれを見上げたあと、くるりと踵を返してロッカーを開けた。しなやかな背中が目前にさらされる。普段ユニフォームを着て太陽にさらされることのないその背中は、生まれたままの白さでそこに在る。肩甲骨がぐっと浮き出たさまをこんなにも色っぽいと感じたのは初めてだろう。男の背中に色気を感じるなんて、ありえない。
「…あの、さあ」
「え、あ、はいっ」
見とれていたのがばれたのかと思って慌てて目をそらせば、怪訝そうな声は一呼吸置いて、重い吐息が漏れた。加具山さん?と振り向こうとしたら、どんとしたたかな衝撃が背中にぶつかって、ちょっと振り向くな、と怒鳴られる。この体勢じゃ頼まれたって振り向けませんけど、浮かんだ言葉は胸に秘めて、静かに伝わってくる加具山さんの体温に目を閉じた。これは、かなり、キケンだ、けど、聞かないわけにはいかない。おれは何も言わないまま、加具山さんの声を待つ。
しばらく経って(おれにはとてつもなく長い時間に感じたけれど、実際はそうでもなかったのかもしれない、わからないけれど)、ようやく加具山さんがぴくりと身じろぎした。触れていた部分が突然外気にさらされて、わずかに頼りなく、震える。
「なんかあったなら、話せよな」
「……え」
「おまえ、最近、変だ」
「…………」
沈黙が、流れた。
変だってことは自覚してる。なにが変って、そりゃあ全部だ。今背中を合わせているこの先輩に対して抱いている想いだとか、今必死に押さえ込んでいる衝動だとか、この体温の上がるスピード、だとか。榛名と、名前を呼ばれる度に激しく自己を誇張しだすこの心臓とか。
「なあ、はるな」
思ったそばから呼ばれて、ああもしかしたらこの人はおれの心を読んでるんじゃないかと思った。思ってすぐに、否定した。だって彼がおれの心を読めるというのなら、今こんな状態で、言葉など交わせるはずがない。背中なんて触れ合わせていられるはずがない。
ちゃんと自覚はしている、叶わない想いだと。叶えるつもりもない。だから必要以上に近づいてくるなと(近づくなと)、願うのだ(言い聞かせるのだ)。
「おれには話せない?」
話せるはずが、ない。
叶わなくたって、今こうしていられればおれは幸せなんだ。伝えて、これが壊れてしまうのが怖いんだ。臆病者だと笑われたってかまわない、ただ、どうしても失いたくはない。
うなずいて、小さくはいと返すと、背中越しにうな垂れる動作が伝わってきて、ふうと息をつくのが聞こえた。呆れているのか、はたまた悲しんでくれているのか。どちらにしても、うれしくない。
「いまは、むり、…です」
どくんどくんと早鐘を打つ、心臓。ああまたこんな風に、おれは逃げ道をつくってる。諦めるために道は閉ざしておきたいのに、何度橋を壊しても、新しいものをつくって、しまう。
またしても後ろで、少し身じろぐ気配。
「……いまは?」
「…………」
「じゃあ、未来は?」
「…………」
答えないでいると、ごつんと肩甲骨の間辺りに衝撃があって、おれはごほりとむせ返った。なんだなんだと後ろを振り返ろうとしたところでばしんと後ろ頭をはたかれ、振り向くなって言ったろ、と激しい叱咤が飛ぶ。だって、と言いかけると、だってもあさってもねえ、とおれ様な声が返ってきた。
「あしたまで、待ってやるから」
「…はい?」
「あしたの朝練には、いつもの榛名で来い」
「……はい」
少しの沈黙があって、それから。
「あー、それから、榛名、」
「はい?」
「あと5分、背中貸せ」
「…………」
5分後、おれはちゃんと、生きているのだろうか。
ただよってくる汗の匂いに酔いそうになる意識を必死でつなぎとめながら、そんなことを思うのだった。
05:背中合わせ
(今は未だ 面とは向かえない、けど)
/07.07
ちょっと兄貴肌を見せたい加具山さんと、とことんヘタレな榛名。
部室でふたりっきりなんておいしすぎて何もできない!な榛名が愛しい。